元日本ハム大嶋匠の前代未聞の挑戦。7年間「野球人になれた」実感は一度もなかった (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Sankei Visual

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──ソフト部⁉︎⁉︎⁉︎

 大嶋はこの短いセンテンスを見た瞬間にすべてを察した。少しタイムラグがあって、インターネット速報に「日本ハム7位・大嶋匠(早稲田大ソフトボール部)」の指名が表示された。研究室は歓喜の渦に包まれた。

 しかし、当の本人である大嶋は喜びとも驚きとも違う感情を抱いていた。

「やらなくちゃ......」

 ドラフト指名されて初めて、大嶋は「野球で生きていこう」と腹を決めた。プロ野球選手になろうとする人間としては、あまりに遅い決意表明だったのかもしれない。だが、それが偽らざる本音だった。

「それまでの僕は常に選択肢が二つある状況でした。荒川博さんやセガサミーで野球を教わっていても、『ダメならソフトがある』と思っていました。日本ハムの入団テストがダメでも、『公務員になればいい』と。逃げ道ではないけど、もう一つの道がありました。テストを受けさせてもらっている以上、断る選択肢はない。指名されて初めて、『やらなくちゃ』と思ったんです」

 そして、計算と違うこともあった。大嶋のドラフト指名は菅野の強行指名と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上のサプライズとして報道されたのだ。

 その夜から大嶋は取材対応に追われる。わけのわからぬままメディアの求めに応じ、テレビカメラの前でなぜかケーキを食べさせられることもあった。大嶋は苦笑しながら「すごく疲れました」と振り返る。ただただ、翻弄される日々だった。

 プロ野球選手になったと実感が湧いたのは、入団発表の場だった。菅野が日本ハムの指名を拒否したため、注目は必然的に大嶋へと向けられた。大嶋自身、「おかしなヤツがひとり混ざっている」と感じていた。

 翌年2月にキャンプインすると、大嶋は本格的に野球選手になった。

「何もかも初めての経験でした。投内連係なんてソフトボールではしませんでしたし、そもそも朝起きて夜まで練習すること自体、初めてでしたから」

 周りを見渡せば稲葉篤紀や金子誠など、「テレビゲームで使っていた人ばかり」。そこへ自分が混じっているのは不思議な感覚だった。

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