西武ドラ1・渡部健人のこだわり。フルスイングしない無心の境地 (2ページ目)

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by Nakajima Daisuke

 当時から周囲より大きく、中学入学時には90キロ近くあった。日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれたこともあり、「海外とのハーフだから、本当は同級生より1歳上なんじゃないか」と噂を流されたほどだ。

 中学の硬式チームで課される通称"タッパ飯"(文字どおり、タッパーにぎっしり入れたご飯を食べ切らないと練習に参加できないというチーム内ルール)はキツかったが、チョコレートが大好きで、「暇さえあれば、おやつを食べていました」。

 愛嬌あるルックスに加え、どこかラテンや南国気質を感じさせる大らかなキャラクターが周囲に愛された。日本ウェルネス高校ではプロ志望届を提出したものの、指名漏れとなり、地元で環境もいい桐蔭横浜大学に進学する。齋藤監督は入学時に110キロあった巨漢を、1年春季リーグ開幕戦から「4番の器があった」と打線の中心に据えた。

 ところが1年秋から打てなくなり、2年春のリーグ開幕前に打撃改造を行なう。それまでは左手主導で打っていたが、OBの甲川稔氏に「右手で打ったほうが、もう少し打球が上がるよ」と言われて意識を変えた。左手主導では打つポイントが前になりやすい一方、右手でリードするとボールを長く見られるように感じた。以前はライナー性の打球が多かったが、放物線の当たりが増えるようになった。

 しかし、3年になると極度の不振に陥る。開幕戦で内角攻めに遭い、自分を見失ったのだ。

「インコース、インコースと来られたら、体が開くじゃないですか。内ばかり気にして、外が遠くに見えるようになって。ボールだと思ったのも、余裕で入っている。それで外を意識すると、内に対応できない。ごちゃごちゃになっていました」

 春の全日本大学選手権では本塁打こそ放ったものの、チームを勝利に導くことはできなかった。秋になると6番に下がり、「チャンスで回ってこないでくれ」と思うほど不安に苛まれた。

 出口が見えないスランプに迷い込んだまま、いよいよ最終学年へ。入学時からプロ入りを志望してきた渡部は今年3月、最終面談で齋藤監督に意思を伝えた。

「社会人はお断りして、プロ一本で行かせてください」

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