高木守道はバックトスを叱られ「頭にきてね、ますますやりましたよ」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

無料会員限定記事


 もっとも、日本におけるバックトスの[開祖]は高木さんではない。昭和30年代の阪神で吉田義男と二遊間コンビを組んだ鎌田(かまだ)実。阪神在籍時は試合で数回しかやらなかったものの、近鉄移籍後は積極的にバックトスをやっていた。ところが、ある試合でショートが捕球できず、当時の三原脩監督から「あれはやめとけ」と厳命される。僕が以前、鎌田さんに取材したときには、「三原監督に規制されなかったら、もっとできたと思うよ」と言っていた。

 バックトスは併殺時に有効な半面、悪送球のリスクもはらむ。高木さんはそれだけの技術を完全マスターして、自分の持ち味にしたのだった。[開祖]には果たせなかったことを、どのようにして実現したのだろう。はたまた、[名手]の目には、後輩の"アライバ"はどう映っているのだろうか。

 取材に向けた準備期間で、高木さんに関する2つの新しい材料を入手できた。

 ひとつは、1991年に制作されたビデオ『巧守巧走列伝』。高木さんのバックトスの映像が収録されている。初めてつぶさに見るその動きは、想像以上にダイナミックかつ攻撃的で素速い。解説者として出演している長嶋茂雄は、次のように語っていた。

「非常に高度なワザでしょ? バックトスっていうのは。それをまったく簡単に、無表情にしてパンとやる、あの仕草なんか見ますとね、ニクイですよねぇ、へっへっへ」

 無表情──。これは、「地味」とも「いぶし銀」とも言われた高木さんを象徴する言葉だ。どんなに好プレーを決めても表情を変えず、淡々とベンチに帰っていく。派手なプレーでファンを沸かせた長嶋とは正反対だが、この両野球人には不思議な縁がある。

 高木さんは名門・県岐阜商1年のとき、立教大4年時の長嶋に指導を受けている。「母校から立大に進んだ先輩が連れてきた」とのことで、以来、高木さんにとって「あこがれの人」になった。プロ入り後の74年には高木さんが中心メンバーの中日が巨人V10を阻止して優勝し、長嶋が現役を引退。その20年後の94年、いわゆる〈10・8〉で巨人が中日を下して優勝を決めた際は、監督同士で対戦している。思えば、あのときも高木さんは淡々としていた。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る