大村巌の理想のコーチング。「オレが教えた」はNG。自発性を引き出す (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Kyodo News

 なかには、自分の意見を聞いてくれるコーチもいた。が、結局は結果がすべて。成績が上がらなければ、ゴールまでのプロセスは選べなかった。毎年、言われるがままに打撃フォームを変えていき、シーズン中に2回、3回と変わるときもあった。それでも結果につながらないから、試合後、たったひとりで打撃練習する日々が続いた。

「そこまでいった時、自分のものをつくりたい、と思い始めたんですね。毎年毎年、変わるんじゃなくて。自分で考えて、発想して、生み出して、これをものにするまで一生懸命に練習するんだ、と吹っ切れるきっかけはありました。それはもう、自分がこのまま来年ダメだったらこの世界にいないだろう、と思い始めた頃。プロに入って、5~6年目ぐらいだったと思います」

 5年目の92年、9月30日の対オリックス戦。大村は7番・レフトでスタメンに抜擢され、プロ初出場を果たす。翌93年には初安打、初本塁打も記録して50打席に立ったが、94年は一軍出場ならず。それでも95年、米マイナー1Aのチームに野球留学した経験がひとつの転機になる。ロッテから野手4人、投手7人が選ばれたなかのひとりとして参加した。

「打撃コーチの方がすごく親身になってくれて。ある日、僕が打てなくて黙っていると、そのコーチが『昨日、大村の夢を見た。4安打したんだ』って言うんです。ウソかもしれない(笑)。でも、そんなに気にかけてくれてるんだ、と思って。そしたらその日、3安打しましたけど、そうやってコーチがモチベーションを上げることが実際にあるんだ、と学びました」

 調子が悪い時に「お前はいい選手だから自信を持て。できる、大丈夫だ」と励まされ、本当に気分が変わって結果が出た日もあった。大切なのは気持ちだ、と教えてもらった。その年から一軍出場が増えた大村は「来年ダメだったら」ではなくなり、99年には自身初の2ケタ本塁打。2003年まで16年間の現役生活を送れたのも、野球留学という転機があったからなのだが、それは大村にとってコーチングの起点でもあったのだ。

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