2014.06.13

68歳の打撃投手。ロッテ・池田重喜の裏方人生

  • 高森勇旗●文・写真 text&photo by Takamori Yuki

 透き通る青空、5月晴れ。爽やかな風が吹き抜ける住宅街に、乾いた音が響く。1年のうちで一番過ごしやすいと感じるこの季節にも関わらず、ロッテ浦和球場で練習する選手の額からは大粒の汗が流れていた。

 武蔵浦和駅で降り、新幹線の線路沿いをしばらく歩いた先、右手に見えてくる緑色のネット。ここが、ロッテ浦和球場(埼玉県)だ。この日は若手からベテランまで、一軍でのチャンスを待つ選手たちが、各々の課題に真剣な表情で取り組んでいた。

打撃投手だけでなく寮長として若手を教育する池田重喜氏

 その中で、ニコニコとした表情でキャッチボールをする男がいた。顔には深いシワが刻み込まれ、日に焼けた肌が笑った時の歯の白さを際立たせている。

 池田重喜、68歳――この年齢にして、今も現役の打撃投手だ。1967年、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)でプロ野球選手となり、4年目にロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に移籍。以来、選手、コーチ、打撃投手としてチームを支え続けてきた。

 この日も二軍で調整中のG.G.佐藤、大松尚逸らの打撃投手を務め、107球を投じてボール球はわずか5球。ストライク率95.3%と驚異のコントロールを見せつけていた。いや、そもそも68歳で100球も投げられるものなのか。選手8年、裏方38年、合わせて46年。永きに渡り”プロ野球”という世界とともに生きてきた男の目には、この世界はどのように映ってきたのだろうか。招かれるまま、私はロッテの選手寮へと足を踏み入れた。

 1946年、池田は11人兄弟の末っ子として大分県臼杵市に生まれた。幼い頃から野球に傾倒し、中学卒業後は津久見高校に進学。2年時に甲子園の土を踏んだ。その後、社会人野球の日鉱佐賀関に進み、1年目の1965年11月、記念すべき第1回ドラフト会議で広島から15位で指名を受けた。当時のドラフトは今ほど完成されたものではなく、紙に自分の名前が書いてあるのを見て、初めて指名を受けたことを知ったという。だが池田は、チームに残留することを決意。そして1967年に都市対抗野球初出場を果たすと、その年の秋、大洋ホエールズから4位で指名を受け入団を決めた。

 入団後は中継ぎ投手として活躍し、3年間で103試合に登板。プロ野球の舞台でも実力を発揮した。だが、3年目のオフ、トレードでロッテオリオンズに移籍。1年目こそ31試合に登板するなど、大洋時代と変わらない活躍を果たすが、翌年は肩の故障によりわずか6試合の登板にとどまる。以後、肩痛に悩まされることになる(しかし、3年前の2011年、なんと肩痛が完治したそうだ。本人曰く「オフにずっと石を投げ続けていたら治った」らしい。恐るべき体である)。