「監督なんてやるつもりはなかった」。センバツを最後に勇退する東洋大姫路・藤田監督の人望に敵将も感動 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文・写真 text & photo by Tanigami Shiro

 当時の東芝は、20年勤めると退職金のベースが上がった。この時点で、藤田は勤続18年。このことひとつとっても夫人の反応はもっともで、藤田も理解していた。

 しかし三牧の粘り強い頼み込みに、徐々に気持ちがグラウンドへと向き始めるなか、ある言葉が藤田の頭に繰り返し浮かんでくるようになった。それは高校時代の監督で、のちに副部長として梅谷馨と黄金期を築いた田中治の言葉だ。

「卒業してグラウンドに顔を出した時に、よく田中さんから言われたんです。『いいか藤田、人生はな、意気に感じて生きる。ここやぞ!』と。その言葉が何度も浮かぶようになって。こういう時のことを言っていたのかなと、思うようになっていったんです」

2度目の監督就任

 1997年8月に東洋大の職員として出向する形で監督に就任すると、翌夏12年ぶりに夏の甲子園出場。その後も8年で4度、甲子園出場を果たした。チームを立て直し、結果も残し、「50歳には引く」という当初の計画どおり、惜しまれつつ退任。今度こそ、穏やかな暮らしを送るはずだった。

 ところが6年後、またしてもチームが藤田を必要とする事態が起きた。

「もう一度だけ、助けてもらえませんか」

 再び、三牧が頭を下げてきた。またも不祥事が起き、監督が辞任。事情は察したが、もちろん藤田は首を横に振った。

「役目を果たし、後任もつくった。今回は勘弁してください」

 しかし、窮状を訴える三牧の言葉を聞いていくうちに、藤田の男気に火がついた。そこへ今度は大学時代の監督から「おまえしかおらん。救ってやれ」と頼まれ、再び単身姫路へと向かった。

 2011年2月から指揮を執ると、夏にはエース原樹理(現・ヤクルト)を擁し、甲子園出場。兵庫県大会の決勝は、延長15回再試合を制しての劇的な勝利だった。ところが、ここからパタリと勝てなくなった。

 その大きな理由は、徐々に学校が進学に力を入れ始め、野球部との関係が冷え込んでいった。そんな空気は外にも伝わり、思うように選手が集まらない。もともと藤田はスカウティングに積極的ではなく、戦力的に厳しい時期が続いた。

 とくに打力の低下は深刻で、「また貧打か......」という心ない声が胸に刺さった。

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