あの「人的補償」の元チームメイトに続け。月給10万円から挑むプロ (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • 市川光治(光スタジオ)●写真 photo by Ichikawa Mitsuharu(Hikaru Studio)

 神谷がNPBに入りたいと今も強く願い、独立リーグで野球を続けているのは、高校時代のチームメイトがジャイアンツに入団したからだ。

 今から遡(さかのぼ)ること5年、あれは2013年のことだった。

 沖縄県で意外な高校が春の大会を制したことがある。沖縄県立北山高等学校――「きたやま」ではない。「ほくざん」と読む。美ら海(ちゅらうみ)水族館にほど近い沖縄本島の北部、国頭郡(くにがみぐん)今帰仁(なきじん)村にあるこの高校は、沖縄県初の大臣となった上原康助氏の出身校として知られていたが、野球においては当時、全国的には無名と言っていい存在だった。それが春の県大会を制し、夏の大会の第1シードとなったのである。

 理由はあった。

 さらにその3年前、2010年の全日本少年春季軟式野球大会で準決勝まで勝ち進み、3位になった沖縄県代表の今帰仁中学校。そのときのメンバーが、「みんなで一緒に甲子園を目指そう」と、地元の北山へ進学することを決めたのだ。

 エースは平良拳太郎(たいら・けんたろう)。スリークォーターから145キロを超えるストレートとキレのあるスライダーを投げ込み、のちに読売ジャイアンツからドラフト5位で指名される右ピッチャーだ(現在は横浜DeNAベイスターズに所属)。

 その平良とバッテリーを組むキャプテンの仲里正作ら、中学時代に全国大会で3位となったメンバー7人が、北山に揃った。その中でサードを守っていたのが神谷だった。

「中学3年のとき、僕の父(のちの北山高校、神谷義隆監督)がコーチに入って、今帰仁中の野球がガラッと変わったんです。そこから負けなくなって、どんどん勝ち進んで、気づけば全国で3位......父がそのまま北山の監督になって、僕らが高校3年の春、沖縄県でも春の大会で勝った。いま思えば、春に勝ったことでチャレンジャーという気持ちがなくなって、夏も勝てるんじゃないかと簡単に考えていた気がします。そんなに簡単にいくはず、なかったんですけどね」

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