引退を決めた入江陵介 人生の半分は日本代表の日々「家族でありホーム。やりきったけど寂しい」 (2ページ目)

  • 牧野 豊●取材・文 text by Makino Yutaka

【日の丸を背負い続けた17年間の栄光と葛藤】

 2006年、高校2年生だった16歳の時からである。入江は、世界の動きが止まったコロナ禍の2020年を除いて17年連続で日の丸を背負い続けてきた。

 日本の競泳界では春先に代表選考会(主に日本選手権)が行なわれ、その成績によって夏の主要国際大会の日本代表を選出することが通例となっている。特に4年に1度のオリンピック選考会の個人種目は2004年以降、決勝で「2位以内+派遣標準記録突破」という条件が厳格に課されてきた。実績はまったく考慮されない、一発勝負である。派遣標準記録は、近年の実績を元に設定されるものでかつては世界大会の16位相当、今回は10位相当と、他の競技では類を見ない厳しい基準が設けられてきた。コンマ数秒で涙した者は数知れないが、一方でその厳しさは、世界大会の本番で戦ううえでの試金石にもなってきた。

 200mを軸に一気にトップシーンへと駆け上がった入江は、オリンピックには2008年北京大会から4大会連続で出場。世界水泳選手権には2009年ローマ大会から8大会連続出場してきた。2012年ロンドン五輪では100m背泳ぎ3位、200m背泳ぎ2位、4×100mメドレーリレー2位と3つのメダルを獲得し、世界水泳でも2013年バルセロナ大会までの3大会で個人3、リレー1の計4個のメダルを獲得している。

 その間、入江が挑んだ相手は世界の競泳史に名を残す兵(つわもの)ばかりだった。

 百戦錬磨のアーロン・ピアソル、「史上最強のスイマー」マイケル・フェルプスと個人メドレーで切磋琢磨していたライアン・ロクテ、ロンドン五輪200mで頂点に立つタイラー・クラリー。当時のアメリカ勢の牙城と戦い続けたことを踏まえれば、金メダルを手にできなかったとはいえ、すばらしい実績である。

 その反面、入江は「日本のエース」という看板との折り合いを計り兼ねてもいた。平泳ぎで五輪2冠連覇を達成した北島康介の後を継ぐ者としてのプレッシャーは、時にモチベーションとなったが、時間を経るごとに重いものになっていった。

 結果的に、個人種目でオリンピック、世界水泳の表彰台に上ったのは2012年ロンドン五輪が最後のこと。その後の競技人生は、葛藤との戦いでもあった。

 国内で勝ち続けても、世界水泳やオリンピックではかつて自身が上っていた表彰台からも距離が遠のいていく──そんな状況が続いていく。世界が進化する一方、国内では入江を脅かす存在の台頭がなかったことが大きな要因のひとつでもあったが、表彰台の一番の高い所を目指し続けてきた入江にとって、世界における現実を目の当たりにすることは難しいものだった。そんななか、時に"ガラス"が割れたかのような苦しい胸の内を、コメントで発したこともあった。

 2013年のバルセロナ世界水泳の200m背泳ぎでメダルを逃すと(4位)テレビのフラッシュインタビューで引退を仄めかし、2016年リオ五輪で200m背泳ぎ8位に終わったときには、ロンドン五輪からの4年間を振り返り、「自分は賞味期限が切れた人間なのかなと思ったりした」と発言したりもした。

「メダルを(世界大会で)取れていた時期から決勝に残れない時期も出てきたりして、苦しい時期のほうが圧倒的に長かったかなと思います」と入江は、振り返る。

 記録面では100m背泳ぎ52秒24、200m背泳ぎ1分52秒51の自己ベストは今も日本記録として残るが、樹立したのは15年前の2009年。その年の5月にはオーストラリアで当時の200m背泳ぎの世界記録を上回る快泳を見せながら、高速水着の開発競争に世界水連の規則が後追い対応となる混乱期だったため、入江の着用水着が審査で認可されず、「幻の世界記録」に終わったこともあった。

 記録が指針となる競技のアスリートにとって、自己ベスト更新は何よりのモチベーションとなるが、入江はこの点でも長い間、葛藤を抱えてきたといえる。

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