箱根駅伝でも「幸運の1万ウォン」をお守りに 國學院大・平林清澄、衝撃の初マラソンの舞台裏
チームスローガン達成を誓う平林清澄 photo by Wada Satoshi
2月の大阪マラソン、2時間06分18秒の初マラソン日本最高記録、日本人学生最高記録、日本歴代7位の記録で優勝を飾った平林清澄(國學院大3年)。学生駅伝の枠を超えた衝撃的な走りだったが、本人にとっては、マラソンデビューが1年遅れた悔しさ、そして来るべき学生最後のシーズンへの意気込みなど、さまざまな思いが入り混ざったものでもあった。
平林清澄インタビュー後編
前編「平林清澄が振り返る記録づくめの初マラソン初優勝」はこちら
【MGCはひとり沿道で】
世界選手権に入賞した実績のある海外招待選手や五輪代表を差し置いて、今年2月の大阪マラソンを制したのは大学3年生の平林清澄(國學院大)だった。
実は、平林は早くから在学中のマラソン挑戦を視野に入れていた。
「前田(康弘)監督とは『学生のうちからマラソンをやったっていいんじゃないか』と話していて、僕もマラソンにチャレンジしたいと思っていました。入学した時から『平林はマラソンでしょ』と言われていたので、(適性を)見抜いていたんですかね」
実際に、大学1年の3月(2022年)に日本学生ハーフマラソン選手権で優勝した際には、翌年のマラソン挑戦を明言していた。つまりは、もともとは1年早く初マラソンを走るプランを立てていた。
しかし、昨年の箱根駅伝の後に仙骨を疲労骨折してしまう。平林にとって疲労骨折するのは人生で初めてで「歩けないほど痛かった」という。当然、マラソン出場も見送ることになった。それだけでなく、急ピッチで間に合わせた学生ハーフでは連覇を逃し、トラックシーズンに入ってもなかなか試合に復帰できなかった。
「今思えば、"仙骨さん"に『お前にはマラソンはまだ早い』とか『今走っても恥をかくだけだ』って言われた気がしました。結果論ですけど、練習をさらに1年間積んで、今回のタイミングで臨んだのが正解だったんじゃないですかね。そう思っています」
このように、平林は昨年のケガをも前向きに捉えている。
ただ、1年早く走っていれば、パリ五輪の日本代表への道が開けた可能性もあった。
「もしMGC(マラソングランドチャンピオンシップ/パリ五輪マラソン日本代表選考会)に出ていれば、学生初じゃないですか。もちろん出たかったですよ。それにMGCでパリの切符を獲ったら、現役大学生として五輪に出場するわけですから。ケガした時点でその道がなくなって、正直、悔しかったです」
そんな悔しい思いも胸の内にはあった。
自分が走っていたかもしれないMGCは、雨の中、ひとり沿道で観戦した。
「もちろん(國學院OBの)土方(英和)さん(旭化成)や浦野(雄平)さん(富士通)の応援もありましたけど、レース展開やコースも見て回りたかった。雨のなか5カ所くらい回りました。"エキジョ(駅伝ファンの女性のこと)"ならぬ"エキダン"ですね(笑)。
MGCを走れなかったのは悔しかったですけど、僕はあのレースを見に行ってよかったです」
今回の大阪マラソンの優勝で、来年の世界陸上選手権東京大会の有力な日本代表候補に挙がるが、平林の視線の先にあるのは4年後のロサンゼルス五輪だ。MGCを観戦して、その舞台で自分が走っている姿をイメージし、"次は絶対に俺が走ってやる"という思いを強くしていた。
「オリンピックはまだ現実味はないですけど、21歳になって"オリンピック"なんて言っているとは思わなかったです。小学生が『野球選手になりたい』って言っているのと変わらないですよね(笑)」
平林はそう言って笑うが、いやいや、東京五輪代表の中村匠吾(富士通)にも、パリ五輪に内定している小山直城(Honda)にも勝利しているのだ。まだマラソンを1回走っただけに過ぎないが、十分に現実味のある目標といっていいだろう。
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著者プロフィール
和田悟志 (わだ・さとし)
1980年生まれ、福島県出身。大学在学中から箱根駅伝のテレビ中継に選手情報というポジションで携わる。その後、出版社勤務を経てフリーランスに。陸上競技やDoスポーツとしてのランニングを中心に取材・執筆をしている。