【平成の名力士列伝:小錦】土俵を席巻したケタ外れのパワー 頭の回転の早い陽気な性格も人気に 外国出身力士初の大関 (2ページ目)
【大関陥落後もひと向きに相撲と向き合う】
規格外の巨体とパワーの代償として、ヒザの故障との戦いも余儀なくされた photo by Kyodo News
大きな障害となったのはヒザのケガだ。大関昇進前の昭和61(1986)5月場所8日目、北尾(のち横綱・双羽黒)との取り直しの一番で敗れた際に右ヒザを負傷。克服して大関昇進は果たしたものの、最高で285キロに達した体重を支えるヒザへの負担は大きく、悩まされ続けた。
それでもあきらめずに努力を続け、平成元(1989)年11月場所、1敗の単独首位で迎えた千秋楽、関脇・琴ケ梅を寄り切って悲願の初優勝。勝ち残りの控えで流した大粒の涙が、これまでの苦労を物語っていた。さらに、平成3(1991)年11月場所では13勝2敗で2度目の優勝を果たし、翌年の1月場所は12勝3敗、3月場所は13勝2敗で3度目の優勝と安定した成績を続けたが、当時厳しく守られていた「2場所連続優勝」という横綱昇進基準は満たせず、綱取りは逃した。
その後はヒザの不調で思うような相撲が取れなくなるうちに、ハワイの後輩である曙がかつての自分のように番付を駆け上がって大関に並び、あっと言う間に外国出身力士初の横綱をつかみとった。一方の小錦は、カド番で迎えた平成5(1993)年11月場所で負け越して大関陥落。13日目、負け越しが決まった一番の相手は曙だった。関脇でも大きく負け越して平幕に陥落し、三役復帰も果たせない日々が続いたが、それでも腐ることなく、懸命に土俵を務め続けた。
小錦には入門以来、外国人出身力士ならではの葛藤があった。ハワイの先輩高見山は、小錦が幕内に上がる直前に土俵を去り、外国出身関取はひとりだけ。幕内に上がってきた頃の「黒船」の印象は鮮烈で、破格の巨体を生かした圧倒的な相撲が「あれは相撲ではない」と言われ、本人の「相撲はケンカだ」という発言が曲解され、批判を受けた。「横綱に上がれないのは人種差別」と発言したと報道され、物議をかもしたこともあった。
しかし、大関から陥落しても真摯に土俵を務め続ける小錦の姿がファンの共感を呼んだ。陽気で頭の回転が早く、ウィットに富んだコメントで周囲を和ませる面がクローズアップされ、大関時代以上の喝采を浴びるようになった。
平成6(1994)年2月に日本国籍を取得し、平成9(1997)年11月場所を最後に33歳で引退して年寄佐ノ山を襲名したが、ほどなく退職。「KONISHIKI」の名でタレントとして活躍しながら、相撲のイベントなどにも積極的に参加し、自らが現役時代に実感してきた相撲の魅力を世界中に発信し続けている。
【Profile】小錦八十吉(こにしき・やそきち)/昭和38(1963)年12月31日生まれ、アメリカ・ハワイ州出身/本名:塩田八十吉/所属:高砂部屋/初土俵:昭和57(1982)年7月場所/引退場所:平成9(1997)年11月場所/最高位:大関
著者プロフィール
十枝慶二 (とえだ・けいじ)
1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。
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