【平成の名力士列伝:武双山】超速出世を果たした「平成の怪物」 貫いた真っ向勝負の相撲道 (2ページ目)
【後輩の出世に奮起し大関へ】
転機になったのは、武蔵川部屋の弟弟子の躍進だった。2学年下の出島が、平成11(1999)年7月場所、初優勝して大関に昇進。「出島が上がれるんだったらオレも」と闘志を奮い立たせた。半年後の平成12(2000)年1月場所、13勝で初優勝し、3月場所も12勝して大関昇進。伝達式では「常に正々堂々、相撲道に徹します」と力強く口上を述べた。
大関時代は再び、ケガとの闘いに明け暮れた。腰を痛めて新大関の5月場所を全休し、7月場所も4勝11敗で早々に大関から陥落。直後の9月場所で10勝すれば特例で大関復帰を果たせる。なりふり構わず白星が欲しい状況でも安易に変化などに走らず真っ向勝負を貫き、千秋楽に10勝目を挙げて復帰した。その後も度重なるケガで思うような相撲が取れず、休場が相次ぎ、平成16(2004)年11月場所、初日から3連敗して翌日に引退を表明した。
入門当初の「怪物」のイメージは薄れ、大関昇進後も戻らなかった。もしもケガに見舞われず、「怪物」のまま横綱に駆け上がったらどんな力士になったのか――。しかし、引退会見では「大関としての責任を果たせなかったことは気にかかりますが、相撲人生に悔いはありません」と晴れやかな表情を浮かべた。ケガに苦しみながら正々堂々の土俵態度を貫き、大関の座をつかんだことは、武双山の相撲人生に得難い深みと味わいを加えていた。
引退後は年寄藤島を襲名。武蔵川部屋を継承して藤島部屋の師匠となり、弟子の育成にあたる一方、副理事として執行部入りし、審判部副部長を長く務めている。平成23(2011)年11月場所後、稀勢の里が直前3場所32勝で大関に昇進したときは、一部のマスコミからの「甘い昇進」との批判に対し、「我々は玄人。稀勢の里の内容がどれだけよいかはわかっている。単に白黒だけではなく、胸に伝わってくるものがある」と言いきった。
正々堂々の姿勢は、立場、時代が変わっても貫かれている。
【Profile】武双山正士(むそうやま・まさし)/昭和47(1972)年2月14日生まれ、茨城県水戸市出身/本名:尾曽武人/しこ名履歴:尾曽→武双山/所属:武蔵川部屋/初土俵:平成5(1993)年1月場所/引退場所:平成16(2004)年11月場所/最高位:大関
著者プロフィール
十枝慶二 (とえだ・けいじ)
1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。
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