男子フィギュアの礎を築いた本田武史「もうスケートはいいかなと思った時も...」 14歳で日本一になった天才がぶつかった壁 (3ページ目)
【つらかったアメリカ時代「もういいかな...」】
ーー4回転時代が到来した興奮はありましたか。
楽しかったですね。そのなかで自分がどこまで目立つかっていう意識があったかなと思うけど、長野五輪のあとは、スケートを離れたいっていう気持ちがあって......。ケガもあったしアメリカに住む勇気もなかったので、「もういいかな」と思った時もありました。やると決めてアメリカに戻ったけど、どうしても練習したくなくて。
長野五輪前は五輪に出場したアメリカ選手も同じリンクにいて一緒に練習ができていたけど、その選手がいなくなって一人になってしまって。どうしようかなと考えて、ストイコがいるカナダのリンクへ拠点を移すことにしました。
ーー競い合う相手がそばにいないとモチベーションも上がってこない。
やっぱりひとりで練習するのは、環境としてはいいかもしれないけどつらかったですね。トロントのダグラス・リー・コーチのところには、世界選手権に出ている選手が8〜10人ほど同じ時間帯で練習ができた。男女を合わせれば五輪に出た選手が5〜6人もいました。
ただ今の選手のようにコネクションがあるわけではないから、最初は本当にどうしよう、と。自分でつながりを探していたところ、IMGのショーに出ていてカナダで練習している選手が「1回遊びにおいでよ」と言ってくれて、行ってみたらジェフリー・バトルがまだジュニアで、ペアとアイスダンスを合わせて選手が150〜200人近くいました。
シングルは朝8時から午後5時までレベル分けでずっと貸し切りで、2時間半もエリートクラス選手だけが滑れる時間があった。それに週1回、リンクへ行って抽選して公式練習、衣装も着て6分間練習もして本番という試合のシミュレーションもあったんです。当時からカナダではビデオで練習を撮影してチェックするというのもやっていました。
ーーアメリカにいた時とは違う充実感だったのですね。
今は日本でもパーソナルトレーナーや栄養士をつけるのが普通になっているけど、カナダでは僕が行った2000年代にすでにそれをやっていた。スケート靴を直す専門だったり研磨する専門の人もリンクにいるので、何かあったら不具合を直してもらえる。スケートショップもリンクの近くにあって、環境としては最高でした。カナダに行ったからこそフィギュアスケートをとことんやれたし、楽しくできた。だから本当はカナダから帰ってくるつもりはなかったんです。
(文中一部敬称略)
<プロフィール>
本田武史 ほんだ・たけし/1981年、福島県生まれ。現役時代は全日本選手権優勝6回。長野五輪、ソルトレイクシティ五輪出場。2002年、2003年世界選手権3位。現在はプロフィギュアスケーターとしてアイスショーに出演するかたわら、コーチや解説者として活動している。
著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。
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