男子フィギュアの礎を築いた本田武史「もうスケートはいいかなと思った時も...」 14歳で日本一になった天才がぶつかった壁 (2ページ目)
【性格がフィギュアスケートに向いていた】
ーー翌季にシニアへ上がってからも結果を残して、長野五輪まで一気に駆け上がりました。
五輪に出たのが、1番目の人生の変わり目でした。五輪に関しては早めに内定をもらっていて、そこへ向けての1年間というなかでプログラム制作のためにアメリカに行きました。「ここで練習しなさい」という感じで、何もわからないまま、正直言われるがままでした(笑)。
ーー4回転ジャンプの挑戦も言われるがままに?
トリプルアクセルを降りた時点で次は4回転しかなかったですね。でも今のように動画もなくて跳び方もわからないし、海外の選手が跳んでいるといっても数人だけ。「どうするの?」とコーチに言うと、「空中で4回まわって降りりゃいいんだよ」と言われて、「あっそうか」と思って。「4回まわる」としか考えてなかったけど、たぶんそういう性格がこの競技に向いていたんでしょうね。
ーー4回転トーループは、1988年にカート・ブラウニング(アメリカ)が初めて跳びました。
そうですね。その後、1994年にエルビス・ストイコ選手(カナダ)が4回転+3回転の連続ジャンプを跳んで。長野五輪は優勝したイリヤ・クーリック選手(ロシア)が4回転を跳び、郭政新選手(中国)が2回転をつけた連続ジャンプも含めて2本成功したけど、それが本当にすごいという時代でした。
当時は、ヨーロッパや北米の、どちらかというと芸術系のスケーターが強くて、日本の選手はどれだけ頑張っても勝てなかった。ただストイコは芸術性では少し不利ななかでも、4回転+3回転を跳ぶという彼なりの武器を身につけたことによって世界選手権で勝てたというところはある。「じゃあ、僕には何が必要かな?」と思ったら、やっぱり4回転かなと思いました。公式戦で初めて挑戦したのは1997年のNHK杯だったけど、成功したのは長野五輪直後の世界選手権の予選。そこから2002年ソルトレイクシティ五輪へ向けた4年間は、世界が一気に4回転時代になりました。
ーー長野五輪自体はどういうものでしたか。
ケガもしていたので出られてよかったなという感覚だったし、「五輪って何だろう」とわからない状態のままでした。
ーー当時の新聞を見ると、フリースケーティングの前には「誰が4回転を跳ぶか」が勝負の分かれ目だと注目されていました。
結局、全体を見ても失敗したアレクセイ・ヤグディン選手(ロシア)を含めて3人しか4回転を跳んでいない時代。練習では跳んでいたとしても本番に入れるにはリスクが高かった。ジャッジも今のような加点方式ではなく減点方式。4回転を跳んでもテクニカルメリットは6点満点で、失敗したら0.4点減点されるから、入れるよりはできるだけ完璧に滑るというのが大事な時代でした。
でも、1999年のルール改正によってショートプログラムで4回転が解禁になったので、そこから中国選手が4回転をショートでどんどん跳び始めた。それで、「4回転を入れなきゃ」という状態になっていき、2002年ソルトレイクシティ五輪の時は入れないと最終グループに残れないくらいになりました。フリーではトーループとサルコウを跳んで2〜3本入れる選手も出てきて、4回転を跳べる選手がものすごく増えた時期だったなと思います。
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