ブル中野より先にアメリカで人気爆発 全女のタッグチーム「JBエンジェルス」と元東スポ記者が語り尽くす
(連載8:ビューティー・ペアは全女のリングを歌でも盛り上げた 不仲説の真相も>>)
1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。
そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第9回は、全日本女子プロレスで「ジャンピング・ボム・エンジェルス(JBエンジェルス)」として活躍した山崎五紀と立野記代。今年、日本人女性初として「WWEホール・オブ・フェーム」殿堂入りしたブル中野より先に、アメリカで成功を収めた日本人女子レスラーについて聞いた。
1986年1月、全日本女子プロレスのWWWA世界タッグ王座を獲得した山崎五紀(左)と立野記代 photo by 東京スポーツ/アフロこの記事に関連する写真を見る
【"女子プロレス界の聖子ちゃん"】
――のちにクラッシュ・ギャルズを結成する長与千種さんやライオネス飛鳥さん、ダンプ松本さんなどが1980年にデビューしましたが、翌1981年にデビューした山崎五紀さんや立野記代さんの印象は、いかがでしたか?
柴田:ふたりは1984年にJBエンジェルス(=ジャンピング・ボム・エンジェルス)を結成しましたが、なんでもできました。すごくポテンシャルが高くて運動神経もずば抜けていたし、試合のテンポもいい。男子のジュニアヘビー級のようにスピードもあって、ふたりの連携技の完成度もすばらしく、タッグチームとして完成度も高かったです。
WWF(現WWE)にも参戦しましたが、それがウケたんでしょう。当時のアメリカでは、現在とは違って女子プロレスは"前座のイロモノ"というような扱いでした。そこで黒髪で小柄な、オリエンタルな少女たちがレベルの高い試合をするんですから、インパクトは大きかったでしょうね。
――立野さんは"女子プロレス界の聖子ちゃん"というあだ名でしたよね。
柴田:松田聖子さんに似ていたからね。立野はデビュー2年目の1982年8月、長与が持っていた全日本ジュニア王座に挑戦してタイトルを獲得。初代王者がジャガー横田、第2代王者が北村智子(ライオネス飛鳥)、第3代王者が長与千種、そして第4代王者が立野記代となりました。この全日本ジュニア王座は若手の登竜門的なタイトルで、のちにブル中野や北斗晶も戴冠しています。
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