『極悪女王』で話題の全日本女子プロレスはすべてが「規格外」だった 元東スポの柴田惣一が明かす人気とその裏側
(連載4:長州力から「お前にトップ記事をやるよ」レスラーの結婚スクープ裏話>>)
1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏。テレビ朝日のプロレス中継番組『ワールドプロレスリング』では全国のプロレスファンに向けて、取材力を駆使したレスラー情報を発信した。
そんな柴田氏が、選りすぐりのプロレスエピソードを披露。連載の第5回は、9月19日からNetflixで『極悪女王』も配信されて話題の全日本女子プロレス。昭和の"規格外"だった世界について聞いた。
全日本女子プロレスで大人気だったクラッシュ・ギャルズの長与千種(左)とライオネス飛鳥(右) photo by 東京スポーツ/アフロこの記事に関連する写真を見る
【クラッシュ・ギャルズなどの登場で人気がうなぎ上り】
――柴田さんは東京スポーツに勤務されていた頃、女子プロレスの記事も扱っていたんですか?
柴田:1984年8月にクラッシュ・ギャルズ(長与千種・ライオネス飛鳥)が『炎の聖書』でレコードデビューしてから、女子プロレスの人気がうなぎ上りになって。読者からの要望もあって、その頃から取材するようになりました。 全日本女子プロレスは「日本女子プロレス協会」を退社した松永高司が兄弟とともに1968年に設立。全盛期には年間300試合以上が行なわれていました。
当時、事務所は東京の目黒にあったんですが、その事務所の奥に大きな金庫があり、そのなかに現金が無造作に押し込んでありました。あの頃は今と違って、現金での取引がほとんど。試合後、チケットやグッズの売り上げを、そっくりそのまま金庫に入れておく。だから、金庫を開けるとこぼれるようにお金が落ちてくるんですよ。
――すごいですね。見てみたかったです(笑)。
柴田:金庫の中にいくらあるか、誰も把握していなかったそうですよ。よく松永4兄弟は、「飲みに行こう!」と金庫を開けて、クシャクシャのお札を鷲掴みにしてポケットに入れて繁華街に向かっていました。
――バブリーな時代ですね。
柴田:1970年代後半、ビューティ・ペア(ジャッキー佐藤・マキ上田)が出てきた時も、会場での選手の入り待ち、出待ちをするファンの数はものすごかったです。あと、いちばん人気があった頃は入団オーディションに申し込みが殺到して、人が溢れていましたね。
事務所に送られてきてうず高く積まれた書類選考の書類が、机から落ちたらその書類が見られることはない。「そのなかに"ダイヤの原石"がいたんじゃないか」と思ったこともありますが、「その人には運がなかった」と言って応募書類に目も通さずに落としていました。
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