NBA伝説の名選手:ジョー・デュマース  謙虚な姿勢でハードワークに徹し偉業を成し遂げた「バッドボーイズ」の紳士

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

デュマースはピストンズ2連覇時以降も長く、チームの歴史を支えた photo by Getty Imagesデュマースはピストンズ2連覇時以降も長く、チームの歴史を支えた photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載24:ジョー・デュマース

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第24回は、悪役集団のイメージの強かった1980年代後半のデトロイト・ピストンズに置いて、人格者としての存在感を放ちながらチームの主力として活躍したジョー・デュマースを紹介する。

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【無名校から憧れの選手とチームメートに】

 1989年と1990年にNBA2連覇を成し遂げたデトロイト・ピストンズは、フィジカルの強さとハードファウルをおかしてでも相手を止めるというメンタリティを持ったチーム。そのスタイルから「バッドボーイズ」という愛称がついたように、ピストンズを応援する人たち以外のNBAファンからは、悪役として嫌われていた。

 しかし、ジョー・デュマースだけは「バッドボーイズ」の一員ながら、グッドガイと認識されている選手だ。レフェリーに対して文句を発することはほぼなく、表情をあまり変えずにハードにプレーし続けた。1995−96シーズンに始まったNBAの「スポーツマンシップ・アワード」の初代受賞者であり、2000年からはその授与トロフィーに『ジョー・デュマース・トロフィー』という名前がついていることが、その証と言える。

 1963年5月24日、ルイジアナ州ナッキトッシュという人口2万人にも満たない小さな市で生まれたデュマースは、トラック運転手の父とノースウエスタン・ステイト大学の管理人として働く母の下で育った。プロ選手になった兄デビッドの影響でフットボール選手になることに憧れ、高校の途中までディフェンシブバック(DB)としてプレーしていた。しかし、ある試合中に激しく激突したことをきっかけに、デュマースの熱意はバスケットボールへと傾いていく。父が自宅の裏庭に木製ドアと自転車の車輪を使って作ったゴールを使い、ジャンプショットの練習に打ち込んだ。

 ナッキトッシュ・セントラル高校卒業後、自宅から約200kmのところにあるマクニース・ステイト大に進学したデュマースは、1年生の時から主力として活躍。3年生時に26.4点(NCAA全体で6位)、4年時に25.8点(4位)のアベレージを残す。マクニース・ステイト大が所属していたサウスランド・カンファレンスの注目度は全米では低かったが、ピストンズのGMだったジャック・マクロスキーはラスベガスでデュマースのプレーを見た瞬間、NBAで活躍できると選手と実感していた。

 1985年のNBAドラフトが開催される前、デュマースは1巡目の上位で指名されるという見方もあった。しかし、ピストンズの18位までドラフトされなかったため、マクロスキーは躊躇することなく指名。デュマースは学生時代にポスターを部屋の壁に貼っていたアイドル、アイザイア・トーマスとチームメイトになったのである。

「アイザイアはチームのハートだ。何も恐れず、容赦しなかった。彼とプレーすることは私のゲームを高めることになった。毎日、最高レベルで競争する方法を学んだんだ」

 こう語ったデュマースは、ルーキーシーズン途中から先発のシューティングガード(SG)に定着。シュート力に加えてポイントガード(PG)を任せられるボールハンドリング技術と視野の広さ、タフなディフェンスをする選手として、ピストンズ一筋14シーズンのキャリアを送ることになる。

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著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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