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【欧州サッカー】マルセル・デサイーの全盛期は無敵だった 「インサイドキックでサイドチェンジする」と噂されたほど (2ページ目)

  • 粕谷秀樹●取材・文 text by Kasuya Hideki

【ファン・バステンを圧倒】

 この強者ぞろいのなかにおいて、デサイーは移籍初年度からセンターバックの定位置を奪取。そして1993年5月26日、ミランとのチャンピオンズリーグ(CL)決勝に臨んだ。

 1990年代前期はミランの黄金期である。「インヴィンチービレ(イタリア語で無敵)」と恐れられ、1991‐92シーズンからセリエAを3連覇。ただ、少なからぬ不安も抱えていた。

 33歳になったフランコ・バレージは体力的な衰えに抗えなかった。ルート・フリットは規律違反でチーム内の信頼を失い、マルコ・ファン・バステンは満身創痍。さらにフランク・ライカールトは「1992-93シーズンかぎりで退団する」と明らかにし、ジャン=ピエール・パパンは古巣との対戦に必要以上の緊張感に苛(さいな)まれていた。

 誰がどう考えても、マルセイユが有利である。立ち上がりこそミランの試合巧者ぶりに圧倒されたが、徐々にマルセイユが主導権を奪い返す。激しいプレッシングを繰り返し、巧妙なオフサイドトラップをミランに仕掛けていった。

 デサイーはファン・バステンを圧倒するだけではなく、パパンやダニエレ・マッサーロとの1対1でも無敵だった。スピードとパワーで見下ろすかのような対応だ。

 仮にミラン攻撃陣が全員健在であっても、デサイーを簡単には崩せなかっただろう。体力的に落ちてきたイタリア王者にとって、難攻不落の砦(とりで)とも思えるほど厄介な存在だった。

 マルセイユは前半終了間際、ペレのCKからボリがヘディングで決めて先制。後半はその1点を守りきり、フランスのクラブとして初のヨーロッパチャンピオンに輝いた。

 しかしその後、マルセイユは上層部による八百長工作が発覚する。フランスリーグでの不祥事であるため、UEFAはインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)への出場権を剥奪する程度のペナルティしか科していない。

 ただしフランス国内では、タイトル剥奪と2部リーグ降格の重い処分が下された。マルセイユはヨーロッパの頂点に立った事実に、自ら泥を塗った。

 このスキャンダルさえなければ、マルセイユは世界的な強豪として今も尊敬されていたかもしれない。だが、上層部は世界中に恥をさらした。1993年11月、デサイーがミランに新天地を求めた(当時は移籍期限が設けられていない)のは、至極当然の決断である。

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