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釜本邦茂さん死去 日本サッカーが生んだ不世出のストライカーのすごさ (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【工夫と努力で進化した天才】

 もっとも、釜本も最初からこうした万能型だったわけではない。

 全盛時代を知る者としては信じられないことだが、京都・山城高校時代は右足だけの選手だったし、それほどスピードもなかったのだという。

 その後、日本代表入りしてから右足だけでは勝負できないことを知った釜本は武器を増やしていく。

 ペンデルボール(ポールからロープでボールを吊るしたヘディングの練習用機材)を使ってヘディングを鍛え、左足でも正確なボールを蹴ることができるように左手で箸を使って食事をしたのだという。

 入団2年目の1968年1月に、ヤンマーディーゼルは釜本を西ドイツのザールブリュッケンに短期留学させた。そこでユップ・デアバル(のちに西ドイツ代表監督)の指導を受けてスピードを身につけた釜本はさらに得点能力をアップさせ、同年10月のメキシコ五輪で得点王に輝いた。

 また、ザールブリュッケンには1966年W杯イングランド大会で得点王となったエウゼビオ(ポルトガル)のフィルムがあり、釜本はそのフィルムが擦りきれるほど見続けて、エウゼビオのキックをマネたという。

 エウゼビオは実は生まれつき両足の長さが違っており、それを利用して強烈なインステップキックを蹴っていたのだが、普通の人にはマネすることが難しかった。そこで、釜本はボールよりかなり前に立ち足を踏み込み、蹴り足の膝を折りたたむような独特のフォームを自身のものとしたのだ。

 釜本は間違いなく天才である。だが、自らに欠けている物を知り、それを補うために工夫をこらしたトレーニングに励み続けたからこそ、世界的な総合的CFとなることができたのだ。

 また、1964年の東京五輪の時にようやく20歳になる逸材を信じて、日本代表で起用し続けた長沼健監督や岡野俊一郎コーチの決断があったからこそ、釜本は東京五輪でプレーできたのだし、まだ国際交流が今ほど盛んでなかった時代にヤンマーは釜本を西ドイツに留学させた。

 つまり、日本のサッカー界全体がこの逸材を育てるために力を注いだのである。

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