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稲本潤一が20年前の日本代表メンバーを回想。バチバチのライバル関係や中村俊輔の落選など、どう感じていたのか (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei
  • photo by AFLO

---- では、ここからはポジションごとに当時のチームメイトについての印象を聞いていきます。

「全員ですか? それはきついな(笑)」

---- ですよね(笑)。では、試合に出た選手を中心に聞いていきます。まずはGKですが、あのチームには川口能活選手(ポーツマス)と楢﨑正剛選手(名古屋グランパスエイト)という、ふたりのハイレベルな争いがありました。

「そうですね。バチバチのライバル関係がありましたからね。どちらかというと能活さんのほうが意識している感じはあったのかなと。ふたりがいい関係を保ちながら、日本のGKのレベルを上げていっているなというのは、チームのなかでも感じていました。

 ふたりとも年齢は近いですし、フランス大会から南アフリカ大会まで、10年以上もライバル関係が続いていったわけで、あのふたりの存在は当時のチームだけでなく、日本サッカー界にとっても大きかったと思います」

---- 日韓大会では、楢﨑選手が守護神の座を射止めました。

「トルシエ監督がどういう基準で選んだのかはわからないですけど、ナラさんは大会を通じてすごくいいパフォーマンスをしていましたし、安心感がすごくありました。フラット3の選手たちも含め、うしろが安定していたおかげで、ボランチの僕は積極的に前に行くことができました」

---- その「フラット3」は、当時のチームのキーワードでしたが。うしろ3枚がフラットで守るというやり方は、ボランチの選手としてはどんな感じだったのでしょうか。

「今でこそ当たり前になってはいますけど、当時はリベロがいて、ひとり余る形が主流でしたからね。それをフラットにして、ラインを上下させていくやり方は日本ではなかったスタイルだったので、斬新でしたよ。

 それがトルシエ監督の戦術の肝なので、すごく練習をしましたし、要求も相当高かったのを覚えています。それこそ上下の動き方の練習は、ホテルの大部屋でもやったくらいですから。フラット3の選手だけの時もありましたし、11人でやったこともありました。ボールのない状態で、とにかく連動して動くということをひたすらやっていましたね」

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