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【プロ野球】投手起用の革命家・近藤貞雄が大洋に 齊藤明雄が明かす「先発か抑えか」の30分の対話と"確執報道"の真相 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 齊藤は花園高(京都)から大阪商業大を経て、1976年のドラフト1位で大洋に入団。1年目の1977年に8勝を挙げて新人王に輝くと、16勝をマークした1978年から3年連続で2ケタ勝利を挙げた。

 先発完投型の投手として活躍していたが、1981年には救援登板が増え、5勝10セーブを記録。関根が監督に就任した翌1982年からは、抑えに専念するようになった。先発と救援の両方で結果を残してきた齊藤だからこそ、「どちらでも」という答えだった。

「僕は『監督が言うとおりにします』とも言ったんです。そうしたら近藤さんが、『今からリリーフピッチャーをつくるのも大変だしなぁ』とポロッと言って。それで、『だったら、僕はリリーフでいいですよ』と返事をしました。その時に初めて、『自分はリリーフピッチャーなんだな』と、はっきり意識したような感じでしたね」

 まだ球界で投手分業制が確立されておらず、抑えも「1イニング限定」ではなかった時代。1982年の齊藤は、当時の日本記録となる30セーブを挙げながら、134回3分の2を投げて規定投球回にも到達し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。

 ただ、この年も関根から明確に「抑え」と任命されたわけではなく、チーム事情のなかで「リリーフになってしまった」とのこと。起用について監督とじっくり話し合ったのは、近藤が初めてだった。

「ただ、その年の9月に関根さんから言われていたんです。『リリーフを3年も4年も続けていると、体もおかしくなる。来年から先発に戻れ』と。それで、『一度テスト登板をしよう』ということになって、先発としての練習や調整を始めました。9月の終わりに巨人戦に先発したら、完封したんですね。その後、監督が交代して、秋季練習で近藤さんと話したわけです。近藤さんの話しぶりからも、僕を先発で考えていたような感じがありましたよ」

 事実、近藤は「齊藤を先発に回すかもしれない」と記者に語り、齊藤のセーブ数が年々減少していることを指摘。その不振の背景には、Bクラスに慣れきった大洋に蔓延する"ぬるま湯体質"の悪影響があると見て、配置転換をほのめかしていた。

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