権藤博は近鉄の投手コーチ時代に監督の仰木彬と対立 「これ以上いたら、選手の信頼をなくし、選手を守れない」と2年で退団した (3ページ目)
「2年間戦いましたけど、これ以上いたら、選手の信頼もなくすわ、選手を守れないわと思ってね。日本シリーズでは私を外して、別のピッチングコーチに指示してるんで、『あっ、これはオレの居場所はなくなった』と思って辞めたんですよ。こんなバカなことやってられるかって」
【根本さんは監督としてすごいと思った】
のちに仰木は、自著『燃えて勝つ 9回裏の逆転人生』(学習研究社刊)でこう述べている。
<結論を言えば、権藤君はコーチという職分、位置をわきまえていなかった。スバリ言えば、コーチは監督ではないし、投手の利益代表でもない。彼は私の投手起用に対し「これでは投手は育たない」「これでは投手がつぶれます」と言ってきた。いつも選手サイドに立ち、投手たちの先輩としての発言らしきものもあった。投手コーチという専門職の立場から忠告、という含みもあったのだろうが、そんな不満が私への不信感を増幅させていったのだろう>
そのうえで仰木は<すべての決定権は監督の私にある>と断じ、<イエスマンの集まりより、意見を戦わせ、知恵を絞り出すほうがチームにとって得策>と続けつつも、<権藤君が不信感を持つ前に、なぜ監督の真意や、意図を知ろうとしなかったか>と述べている。最終的には、監督の野球との接点を見出す努力をするのもコーチの務めとしているが、現場では難しい話だった。
「私はどの監督にも『こうしましょう』って言ってきました。それじゃなかったら、私はコーチをやってません。仰木さんにどういう意図があろうと、『こうしましょう』っていうのがなくなったから近鉄を辞めたんです。でも、次にお世話になったダイエーでは田淵(幸一)のあと、根本(陸夫)さんが監督の時は『こうしましょう』と言ったら、全部『よし、わかった』でした」
権藤は91年、ダイエーの投手コーチに就任。92年オフ、西武で実質GMだった根本が監督に就任した時、戦力をつくって次の監督にチームを渡すということはわかっていた。根本が全コーチに対して「選手に指導するな」と指示したときには面食らったが、実際には「聞きに来たら教えてもいいが、こちらからは口を出すな」だった。権藤にとってやりやすい監督だった。
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