関根潤三に請われヤクルトのコーチとなった安藤統男は、選手たちに激高「おまえらそれでもプロか!」

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:安藤統男(前編)

86年オフ、ヤクルトの監督に就任した関根潤三(写真左)は安藤統男をコーチとして招いた photo by Sankei Visual86年オフ、ヤクルトの監督に就任した関根潤三(写真左)は安藤統男をコーチとして招いた photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【相棒として手伝ってほしい】

 関根潤三に「力を貸してほしい」と請われた男がいる。かつて阪神タイガース監督を務めた安藤統男だ。それまで、関根と安藤に接点はなかった。1986(昭和61)年、秋のことだった。当時、両者ともにユニフォームを脱いでおり、それぞれ評論家として日本シリーズ取材を行なっていた頃のことだ。

「86年の日本シリーズの取材で広島市民球場に行っていた時のことです。当時、ニッポン放送のアナウンサーだった深澤(弘)さんの仲介で、初めて関根さんに会うことになりました。すると、『来年からヤクルトの監督になるんだけど、アンちゃん、ちょっと手伝ってくれないか? チームを変えたいと思っているんだ』と言われました。この時、関根さんは僕に、"コーチとして"ではなく、"相棒として"と言ったんです。ひと回りも年齢は離れていましたから、この言葉は今でも印象に残っています」

 本連載において若菜嘉晴も言及していたように、関根と深澤は懇意の間柄にあった。ここでも関根は深澤を頼り、深澤は関根のためにアクションを起こした。この時、関根は「コーチとして」ではなく、「相棒として」と口にした。関根は安藤を尊敬し、同時にその指導力を欲していた。安藤の力がどうしても必要だった。関根が大洋ホエールズの監督を務めていた頃、安藤はタイガースを率いていた。関根の自著『若いヤツの育て方』(日本実業出版社)には、安藤について次のような記述がある。

 私が大洋の監督をしていたとき、彼は阪神の監督だった。チーム成績には恵まれなかったが、敵将ながらその采配にはたびたびうならされた。
「ここで、これをやられたらいやだな」
 と思っていると、きっちりそれをやれる指揮官だった。いわゆる相手の嫌がる采配のできる監督だった。私は当時から彼の指揮官としての頭脳を高く評価していた。

 この一節を安藤に告げると、「いやいや、とても畏れ多いです」と頭をかいた。

「でも、関根さんにそこまで言われたら、もちろん『イヤです』とは言えないし、こちらとしても、『ぜひ力になりたい』と思いますよ。それで、関根さんの言う『チームを変えたい』という思いを実現させるためにお手伝いすることを決めました」

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著者プロフィール

  • 長谷川晶一

    長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)

    1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。

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