中日ドラゴンズの二冠王・森徹は、柔道の達人で力道山の「義兄弟」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 当時の六大学では同学年の立教大・長嶋茂雄と並び称されるスターで、ホームランバッターだった森さん。いずれも58年にプロ入りし、長嶋は巨人、森さんは中日に入団する。両選手とも新人ながら開幕戦から出場したのだが、3番・サードの長嶋が国鉄(現・ヤクルト)のエース金田正一から4打席連続三振を食らったのはよく知られているとおり。

 対して、森さんは4番・ライトで出場すると、広島のエース長谷川良平からいきなり2ランホームランを放っている。持ち前の怪力に加え、相当の野球センスがないとできない芸当だろう。最終的に、同年は29本塁打、92打点で二冠王の長嶋が新人王になったが、森さんも23本塁打、73打点と1年目から立派な数字を残していた。

 翌59年、長嶋が首位打者を獲得した一方、森さんは31本塁打、87打点で二冠王に輝き、完全に中日打線の主軸となった。が、森さんが在籍したのはわずか4年で、61年オフにはトレードで大洋(現・DeNA)に移籍している。ゆえに中日ファンにとっては「伝説」なのだろうが、これは61年から就任した濃人渉(のうにん わたる)監督との確執が原因だったという。

 その後の森さんは66年、大洋から東京(現・ロッテ)に移籍。オリオンズ打線の主軸を務めるのだが、67年途中から濃人監督が就任すると、翌68年は7試合に出場したのみ。同年、33歳の若さで現役を引退している。これも確執が原因だったのかどうか、真相に触れた文献は見当たらなかった。いったい、両者の間にはどれほどの溝があったのか──。

 もっとも、僕が森さんに会いに行きたくなった理由は別のところにあった。引退後の69年、森さんは同年にアメリカで発足したグローバル・リーグに参加している。このリーグはアメリカのみならず中南米と日本を巻き込み、ナショナル・リーグ、アメリカン・リーグに次ぐ"第三のメジャー"を目指して立ち上げられたものだった。

 リーグの提唱者は、ウォルター・J・ディルベックというユダヤ系アメリカ人。インディアナ州エバンズビルで不動産業を営む"土地成金"で、当初はメジャーとの競合を避けるため興行地を中南米に求めた。その上で将来はグローバル=地球規模のプロ野球リーグに発展させるという、壮大な計画が基盤にあった。

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