根本陸夫が画策したトレードの産物。西武・伊東勤に「野村イズム」が注入された (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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 その時、黒田は34歳。南海では引退後のコーチ就任を示唆され、現役をあと何年続けられるか......という思いもあり、西武に腰を落ち着ける気はなかった。だが、根本に命じられる形で、家族一緒に所沢に住むことになった。当初は西武線の西所沢駅から近い住宅だったが、「もうちょっと広い家があったからここへ来い」と岡田に言われるまま、小手指駅の近くに引っ越した。

「行ったら、根本さんの家の近く。『うわっ、えらいところやな』と。根本さんはフロントに入っていてもう現場にはいないんだけど、『いない』という感覚はなかった。まして岡田さんが二軍の監督でいるわけだし、ずっと監視されているみたいな感じでしたね(笑)」

"監視"はともかく、黒田を簡単に手放したくない、目の届くところに置いておきたいという根本の思いが伝わってくる。実際、1981年の西武捕手陣は大石友好が主力格だったが、まだプロ2年目と若かった。球団職員にして練習生の伊東勤(所沢高)が同年ドラフト1位で入団するも、即一軍は難しく、新監督の広岡達朗にとっても黒田は頼れる存在だったはずだ。

 にもかかわらず、広岡はトレードに不満の色を隠さず、「決まったことなので仕方ないが、正直に言って驚いているし、ショックだ」とマスコミに向けて発言。「片平、黒田はウチに来て出る幕があるの?」と付け加えた。その報道を受け、根本は平然と言った。

「現場のことは一切、広岡監督に任せるが、チーム編成は私がやることだ」

 こうして根本が実質GMとしての姿勢を周りにアピールしたなか、黒田は老舗球団の南海から新興の西武に移籍した。野球環境に何らかの違いはあったのだろうか。

「南海もある程度、トレーニングコーチがしっかりしていたから、ランニングとか、バッティングとか技術以外の練習をよくやっていました。でも、西武はそれ以上にやりましたね。走ること、体を鍛えることに関して、妥協はなかった。

 それはもう、1月の自主トレの段階から走ることを厳しくやるんです。当時、土谷和夫さんという、日本大時代に箱根駅伝も走った陸上競技出身のトレーニングコーチがいて、長距離と短距離をうまく組み入れていました」

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