名参謀・橋上秀樹が語る名将3人の違い。「原辰徳監督は一から十まで自分で判断をしたい人」 (2ページ目)

  • 岡田浩人●取材・文 text by Okada Hiroto
  • photo by Kyodo News

 一方、原監督はそのつど、求められるものをこちらから出すという形で、監督から要求されるまでは詳細なデータを提供することはありませんでした。野村監督はコーチの教育も踏まえて、自分が全部やるのではなくてコーチにはコーチの仕事を任せてくれる感じでしたが、原監督はどちらかというと、一から十まで全部自分で判断をしたいという人。だから、こちらからは言われる前にいろいろと出すことはしないようにしていました。辻監督もどちらかというと原監督と似ているところがあって、特に野手に関しては基本的に自分で判断をしたがっていた。なので、こちらは聞かれたことに対してソツなく答える準備だけをしていました。

 野村監督の後に原監督に仕えましたが、最初は監督との"距離感"を含めて戸惑いもありました。データをどの程度用意したらいいのか、どの時点で提供したらいいのか......。その強弱は監督によってかなり違いました。ただ、お三方とも『名将』と言われる域に入っていた監督で、自分なりの監督論や考え方があった。だから、こちらはそのスタイルに合わせようと考えていました」

 そもそも現役引退後、野球界から離れてゴルフショップを経営していた橋上氏がコーチとして再び野球界に戻るきっかけをつくったのは、南海ホークス(現・ソフトバンク)で野村監督とともにプレーした野手・松井優典氏の存在が大きかった。野村監督がヤクルト監督時代にチームマネージャーや二軍監督、一軍チーフコーチとして支えた男で、阪神監督時代にもヘッドコーチとして苦楽をともにした。

「現役時代から松井さんには目をかけてもらい、大変お世話になっていました。2005年に楽天が誕生した際、松井さんが初代二軍監督に就任した。その時に『コーチをやらないか』という話を松井さんからいただき、二軍外野守備・走塁コーチに就任したんです。私が野球界に戻るきっかけを与えていただいたという意味では、私は野村監督以上に松井さんから大きな恩を受けました。コーチとしても松井さんの姿を見て、勉強させていただいた部分は多かったです」

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