「私はセンスを鍛えます」。元ロッテ守護神が独学でフリーの指導者に (3ページ目)

  • 広尾晃●文・写真 text&photo by Hiroo Koh

プロ通算178試合に登板した荻野忠寛氏(photo by Kyodo News)プロ通算178試合に登板した荻野忠寛氏(photo by Kyodo News) 荻野は残りの5年間で肉体の機能や使い方を独学で学び、自身の考えでリハビリを行なった。プロではもう活躍する機会は訪れなかったが、投げることはできるようになっていた。

「フォームがよければ、靱帯への負担を少なくできることに気づいたんです。MLB170勝を挙げたR.A.ディッキーは、プロ入り時のメディカルチェックでヒジの内側の靱帯がもともとないことがわかって契約金を下げられました。でも彼は、96マイル(約154キロ)の球を投げることができました。逆に、投げ方が悪ければ、80キロの球速でも切れることがある。

 切れないのは投げる瞬間に、筋肉が靱帯を守るからなんです。負荷がかかる瞬間に関節の筋肉などを働かせることで、靱帯への負荷を減らすことができる。これを知るまで、僕は投げたあとのケアを誰よりも一生懸命やっていましたが、じつは『どうやったら炎症が治まるか』よりも『どうやったら壊れないか』が重要なんです。

 一時期、山本昌さんと一緒に練習をしたことがあったのですが、昌さんは『アイシングなんかしないよ。(どうすれば)いくら投げても故障しないか......そればかり考えている』と。つまり、投げても痛くならない方法、ダメージを受けない方法を考えることが大切なんです」

 荻野は2014年に戦力外を受けるが、翌年から社会人の日立製作所に復帰する。この時点では独自の"壊れない投球フォーム"を完成させていたのだ。

「『これをやったらまだまだ投げられる』という感覚で社会人野球に戻りました。監督から『これまで都市対抗の決勝の舞台に立ったことがない。どうしても出たいから力を貸してくれ』と言われました。僕は主戦投手として投げて、日立製作所硬式野球部の創部100周年の2016年についに都市対抗の決勝に進出しました。決勝で敗れましたが準優勝。そしてこの年限りで現役を終えました。

 社会人野球に復帰した2年間で、プロと社会人の意識レベルの違いに衝撃を受けました。『これはなんとかしなければ......』と思うようになって、それまでは誰かに教えるという気持ちは一切なかったのですが、指導者になろうと決心して、日立製作所を退社したんです」

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