不世出のアンダースロー左腕・永射保が語っていた「左殺し」の誇り (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Jiji photo

 鹿児島の指宿(いぶすき)商時代の永射氏は、勢いのある真っすぐとブレーキの効いたカーブが持ち味のオーバーハンドの投手だった。1971年のドラフトで広島から3位指名を受け入団。身長が170センチちょっとしかなかったことと、当時巨人の王貞治の対策に頭を悩ませていた首脳陣の指示で、1年目のオフに早くも腕を下げた。

 1974年に太平洋(現・西武)に移籍してからフォームが固まり始め、腕はさらに下がっていった。

「どうせやるならもっと下げてやろう。左のアンダースローは野球界のタブーみたいになっていたけど、『タブーは破るもの!』と思っていましたから......」

 しかし腕を下げていくと、見本になる投手が見当たらなくなってしまった。そこで参考にしたのが、阪急(現・オリックス)の大エース・山田久志だ。

「腰の使い方、腕の出し方、ボールを離すタイミング......山田さんのフォームを見て、徹底的に考えました。なかでも、ボールを長く持つにはどうしたらいいのか。球離れが早いと、抜け球が多くなって、コントロールも安定しないし、キレも出ない。そこを徹底的に追求しました」

 そして永射氏の出した答えが下半身の強さだった。

「山田さんのフォームは、さすが理にかなっていた。あのボールのキレもコントロールも、下半身の強さがあったからなんです。山田さんの足腰の強さはピカイチですから」

 そういう永射氏も下半身の強さには自信があった。中学時代から毎日25~30キロを欠かさず走っていたからだ。その理由は「早く帰ると、商売をしていた家の仕事を手伝わされるから」だったが、走る習慣はプロ入り後も続き、左右逆の山田久志のような投球フォームが完成した。

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