90歳の球友が明かす、根本陸夫「若き日の武勇伝」の真相 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 自分は表に出ない。腕っ節のいい連中を集める。うしろで糸を引く。ハッタリが利く――。いずれも、選手より監督、監督より実質GMとして活躍する自身の将来を予見したような行動ぶり。2回も落第したという勉学はもちろん、ある面では野球以上に「やらせるケンカ」を面白がっていたのではないか。ともあれ、硬派で知られた学校の"暴れん坊"ながら、馬目自身は根本が暴力を振るう姿は見たためしがないという。

 ただ、根本が茨城中から日大三中(現・日大三高)に転校した理由は、放校処分を受けたこととされている。処分は<持ち前の正義感がオーバーヒートした結果>と伝える文献もあり、なんらかの暴力沙汰が原因と思われても仕方がない。実際はどうだったのか、馬目に訊いた。

「根本は2回も落第したって言いましたけど、じつは3回目があった。茨中はね、落第が3回になると、放校処分で退学になってしまうんです。そして、彼は日大三中に転校した。別れるとき、今でも憶えてます。学校の西側に生け垣の柵があって、その日、根本は柵の向こう側にいた。私は生け垣の間に手を突っ込んで、腕を伸ばして握手したんだけど、寂しい顔をしていたよね。あれはかわいそうだったな」

 ときに、1941(昭和16)年の春。同年12月8日の真珠湾攻撃で日本は太平洋戦争に突入し、野球どころではなくなっていく。馬目は中学を卒業すると、18歳で志願して軍隊に入隊。43年の暮れには、門司港からベトナムに向かう船団の1隻に乗船した。途中、フリピンと台湾の間にあるバシー海峡でアメリカ軍の潜水艦が待ち構えており、魚雷を喰らった船団は大半が沈められ、全13隻のうち2隻だけが残った。

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