【水泳】寺内健が描く新たな夢「飛び込み選手としての道を極めていきたい」 (2ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 山本雷太●写真 photo by Yamamoto Raita

 そう考え出すと、五輪のメダルにあれだけ執着しながらも、獲れずに終わったことが、何か忘れ物をしたように思えてきた。また世界の飛び込みが、技の難易率は上がっても得点は想像したほど伸びていないということも寺内を後押しした。「自分の持ち味の美しい飛び込みをすれば、まだメダル争いにも加われそうだ」と思えた。

 一緒に飛び込みをやっていたこともある弟の佑は「五輪の魔力じゃないですか」と笑う。

「兄貴はアトランタ五輪に初めて出場したとき、すごい楽しくて意識が変わったと言ってたんです。それをまた味わいたくなったのでは」と。

 しかし、会社や親に自分の気持ちを伝えるのには躊躇した。引退したということで人を介して入れてもらった経緯もあるため、会社に残って続けるのは無理だと思った。とはいっても両親に負担をかける訳にもいかない。

 色々考えた末、寺内は「とりあえずは貯金を切り崩してやるしかない」と覚悟を決め、10年9月にミズノを退社した。

「健が一番悩んだのは経済的なことだったと思います。寺内家は決して裕福ではないし、昔も1回の合宿で何十万も必要になったときに、子どもなりに気をつかっていましたから。でも僕ら家族は、健がどれだけ命がけでやってきたかを知っていたので、続けると聞いた時はメチャクチャ嬉しかったですね。むしろ母親の方が、『やればいいんじゃない』と背中を押す感じでした」と弟の佑は言う。

 寺内も「ケガの心配もあるから最初は言い出しにくかったけど、母が『じゃあ、ロンドンへ行くためにお金を貯めなくちゃ』と言ってくれたのが、僕の気持ちをすごく後押ししてくれました」と振り返る。

 すべてを決断した寺内は、長年共に戦ってきた馬淵崇英コーチの元へ向かった。

「もう一度やると言ってきたときは嬉しかった」と笑顔で崇英コーチは当時のことを思い出しながら、次のように続けた。

「体がまだいけるうちはもう一回燃えられるんじゃないかなという予感はありました。肉体的にも男子選手はそう落ちる心配はないし技術も感覚的な部分が強いから、2年間何もしなくてもそう簡単には落ちない。私も、もう一回頑張れると思いました」

 もうひとつ寺内が幸運だったのは、支援先となるミキハウスと縁があったことだった。翌11年1月にはミキハウス入社が決まり、競技を再開する環境が整った。

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