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箱根駅伝後の低迷を経て、実力者・鬼塚翔太は新たな実業団チーム、MABPで自分の走りを取り戻した (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【試合に出るとかそういうレベルじゃなかった】

ホクレン網走大会でも組トップとなり手ごたえを得た photo by ton_cameraホクレン網走大会でも組トップとなり手ごたえを得た photo by ton_camera

 鬼塚は、昨年から母校の東海大を拠点に練習をしている。東海大の先輩である荒井七海が選手兼任コーチとして、今年の日本選手権1500mで優勝した飯澤千翔(住友電工)を指導しており、鬼塚も先輩の指導を受け、自分の走りを取り戻す覚悟を決めた。

 荒井はその時のことをこう振り返る。

「昨年の夏から鬼塚を見ることになり、最初に合宿を行なったのですが、試合に出るとかそういうレベルじゃなかった。今のままいっても厳しいなと思ったので、2カ月半ぐらい休ませ、そのうち2、3週間はノーラン。グラウンドに来なくてよいと伝えました。

 そうしたのは、それまでいろんなところを転々として一貫性のあるトレーニングができていなかったからです。言い方は悪いけど、たらい回しにされて、行き着いた先が自分の母校だった。藁にもすがる思いで来たと思いますが、まずはリセットすることから始めました」

 荒井は、鬼塚を「すごい選手」という目線で見るのをやめた。ただ足が速くなりたいと願う学生と同じ目線で見て、練習も学生と一緒にさせた。

「ハードルをかなり下げて練習させました。でも、それがよかったかなと思います。落ちるところまで落ちて、そこからはい上がろうとした時のエネルギーは本人の内側からしか発せられない。鬼塚は練習に必死にくらいついてきた。その根性はすごいなと思いました」

 練習をスタートさせた後、荒井は"狙い"について鬼塚と話をした。

「鬼塚のキャリアのビジョンについて話をするなかで、どこにいきたいのかを確認をしました。5000mの自己ベストは大学2年の時に出したもので、さすがに賞味期限切れだから、まずはそこを更新していこう。じゃないと、次のステップには進めない。本人もそのことを理解してくれたので狙いは合致しました。

 今回、網走では組トップで走りましたけど、もうちょっと早く戻ってくれるかなと思っていました。そこは僕がうまく持ってこれなかったけど、完全に復活したら何かおごってもらおうかな(笑)」

 鬼塚も最初はきつかったと苦笑する。

「昨年の8月に湯の丸(長野県東御市)で合宿をやったんですけど、かなりオーバーワークな感じで、後半は荒井さんのスピードも上がって、練習メニューを全然消化できなかったんです。特にトップスピードが落ちて、以前との差をかなり感じていました。練習ができないですし、疲労もかなりあったので、練習で走るのをいったんストップしました。11月はほぼジョグだけで、本格的にワークアウトを始めたのは12月でした」

 本格的な練習に入ると、5000mのターゲットタイムよりもワンランク上のペースで走り、800mを飯澤と一緒に走ることでトップスピードを磨いた。200m300mの解糖系のスピードトレーニングはついていけないこともあったが、最終的には400mを全力で走る際、50秒前後のスピードで走れるようになった。

「そのくらいのスピードが戻ると、5000mに対してのスピードの余裕度がかなり出てきたので、いけるかなって思いましたね。荒井さんは練習メニューだけではなく、言語化がすごくて、このメニューはこういう意図があるというのを毎回、LINEで伝えてくれますし、一緒に練習する時は口頭で伝えてくれるんです。陸上の知識としても蓄積されているので、ためになります」

 今年3月の日体大記録会では5000mに出場し、135929をマークした。レース後、荒井には「もっといけるだろう。俺の見立てと1カ月ぐらいのタイムラグがある」と言われたが、その後も全力で練習に取り組んだ。

 4月からはメニューをもらって練習を継続したが、単独でもかなりいい練習ができて自信がついた。6月1日の日体大記録会5000m135018、6月15日の日体大記録会5000m135629を出して、いずれも組で日本人トップとなり、走れる感覚をつかんだ。

「タイムはまだまだですが、納得のいくレース展開だったり、日本人トップを取れてひとつ結果が出たので、このまま継続していけばもっと上に行けるという自信がつきました」

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