箱根駅伝へ駒澤大学に黄信号? 主将・篠原倖太朗が抱える不安とは「危機感が足りない」

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

ホクレンディスタンス網走大会に出場した駒澤大学の篠原倖太朗 photo by Naoki Nishimura/AFLO SPORTホクレンディスタンス網走大会に出場した駒澤大学の篠原倖太朗 photo by Naoki Nishimura/AFLO SPORTこの記事に関連する写真を見る

【ホクレン千歳大会で自己新をマーク】

「よっしゃ」

 篠原倖太朗(駒澤大4年)は小さくガッツポーズして、喜びを噛みしめた。

 最高気温が29.2度まで上がり、蒸し暑さが残るホクレンディスタンス千歳大会の5000mで、篠原はラスト200mで抜群のキレ味のスパートを見せると、日本人トップの13分27秒04の自己ベストをマーク。なかなか切れなかった30秒の壁をトラックシーズン最後のレースで見事に突き破った。
 
「ようやくって感じですね」

 篠原は呼吸を整え、弾んだ声でそう言った。

 トラックシーズンは5000mで勝負して13分30秒を切って日本選手権に出場し、パリ五輪出場を目指した。ただ、その後は思うようにタイムが伸びず、篠原は日本選手権出場のラストチャンスとなる日体大長距離記録会に臨んだ。だが、遅いペースに巻き込まれて前に出るキッカケを掴めないまま、13分33秒13の自己ベストを出したものの、30秒切りを達成できず。日本選手権出場も逸した。レースを見ていた大八木弘明総監督は、「うしろの遅いペースのところで走って前に行かないし、3000mから上げていくにもスピードが乗らない。スタミナがまだまだ足りない」と厳しい表情だった。篠原自身も「これが実力ですかね......」と悔しさを噛みしめた。
 
 それから1カ月後のホクレンディスタンス網走大会の5000m、前回の反省を踏まえ、篠原はスタートから外国人選手についていった。しかし、後半にスピードが落ちて13分35秒33に終わり、またしても30秒の壁を超えることができなかった。大八木総監督は、「3000mから5000mが上がらないし、ラストスパートが課題。最後、上げられないと30秒を切るのは難しい。次の千歳でもう1回チャレンジさせます」と、淡々と語った。
 
 このレース後、篠原は大八木総監督にレース運びなどについて指導を受けた。

「大八木さんには、『最後、上げろ』と言われていて、5000mからハーフまでのすべての種目で後半に動かなくなってしまうので、そこを練習から意識して取り組んでいました。今回、それは克服できたと思います。最後しっかり上げられてよかったんですけど、今までがなかったことになるぐらいの好タイムだったので、できれば25秒を切りたかったです。Ggoatのメンバーの中では自分が圧倒的に遅いので、もうちょっと行かないと」

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著者プロフィール

  • 佐藤 俊

    佐藤 俊 (さとう・しゅん)

    1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。

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