佐山聡が語るタイガーマスクを辞めた真相「猪木イズム」を原点に突き進んだ格闘技の道 (2ページ目)
他にも私生活において、会社から結婚を反対された問題もあったという。そして8月4日にサマーファイトシリーズが最終戦を迎え、6日後の8月10日、新日本に契約解除の通知を文書で郵送した。
「このシリーズ前は、新日本を辞めることは考えていませんでした。ですから、辞めることを決めたのは本当に直前です。ただ、最後の寺西さんとの試合の時には、『これが最後になる』と決意していました」
【デタラメ記事がきっかけで猪木さんと再会】
退団前、猪木さんにあいさつをすることはなかった。逆に引退後、猪木さんから連絡がくることもなかった。1975年の入門から8年あまり、強い絆で結ばれていた猪木さんとの関係が途切れてしまった。
「僕が新日本を辞めたということは、猪木さんとの決別を意味します。当時は『全日本プロレスに行くんじゃないか』というウワサも立ちましたが、僕はそっちへ行く予定はなくて、自分の理想を実現するべく格闘技の世界へ進むことを決めました」
引退後は世田谷区内にジムを開き、かねてからの夢であった"新たな格闘技"を創設すべく後継者の育成に尽力した。猪木さんとの交流も閉ざされたが、思いもよらない形で再会する。それは、佐山が新日本を退団した後に掲載された週刊誌の記事だった。内容は、「クーデター事件の首謀者は佐山だ」という憶測だった。
「まったくのデタラメですから、僕は週刊誌が出た直後、猪木さんに『お会いしたい』と連絡を取りました。猪木さんは快く承諾してくださいました。そこで僕は『あれは嘘です』と話すのを、猪木さんは何も言わずに聞いてくれたのですが、加えて『これからは格闘技へ行きます』と、初めて猪木さんに自分の思いを伝えました」
ジムで新格闘技「シューティング」を創設。一方で1984年7月からは「第一次UWF」に参加してプロレスへ復帰する。リングネームを「ザ・タイガー」から「スーパー・タイガー」へ改名したUWF時代について、佐山は「プロレスを格闘技へ移行させるための実験でした」と明かす。
事実、曖昧なプロレスのルールを競技のように厳格化し、ルールブックを作成。ボクシングのようなランキング制も導入して新たな道を模索したが、選手、フロントから理解されず1985年9月に退団した。その後、「シューティング」を「修斗」と名前を変え、1986年には協会を設立し、プロ、アマチュアの試合を開催。現在につながる総合格闘技の礎を築いた。
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