【ハイキュー‼×SVリーグ】クインシーズ刈谷の髙佐風梨が、影山飛雄の言葉に思う「セッターにしかわからない」感覚
クインシーズ刈谷 髙佐風梨
(連載18:クインシーズ刈谷の「お姉ちゃん」なセッター、佐藤彩乃は日向翔陽の「楽してこうぜ」のパスに「やばい」>>)
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「ずっとバレーをやるつもりはなくて、高校でやめる、大学で終わると思っていたんですが、今ここにいます(苦笑)。『バレーが好きか』って言われたら、好きですし......それでずっとバレーをやっているんですけどね」
髙佐風梨は、そう言って自身のキャリアを淡々と振り返った。極めて自然に、バレーボールは側にあり続けた。
髙佐は、奈良県天理市に生まれた。物心ついた時には、バレーボールが足元に転がっていた。高校までバレーに打ち込み、ママさんバレーを楽しんでいた母親と一緒にボールを触った。
小学1年の頃にはママさんバレーについていき、練習や試合を見ていた。小学3年の時、地元のチームに「入ってほしい」と言われ、加わった。早くからボールに触っていたから、周りの子どもたちよりも秀でていた。
「6年生が抜けたら、来年はセッターで」
指導者は、髙佐をセッターにすることを決めていた。
「お母さんがセッターだったから、というのはあったと思います。指導者がお母さんと知り合いだったので」
髙佐は大きな目を動かして言った。
「セッターができそう、とか、オーバーパスが上手だから、というわけではなかったです。自分がどのポジションをやりたいのか、というのもその時はなかったですね。ただ、セッターをやると決まっていて、自然と『できるでしょ?』となって(笑)」
気づいたらセッターとしてプレーしていた。
「母親はセッターだったので、かなり『こうやれば』とか言われました。でも、お母さんは指導者じゃないし、真に受けていなかったです(笑)。お母さんにセッターの相談をしたことはないですね。バレーの話は基本的にしないので。中学くらいの時に、"お母さんより自分のほうができるな"って気づいたし、そこから何も言わせていないです(笑)」
セッターひと筋というわけではない。中学時代は部員がなかなか揃わず、彼女が拾い、自ら打つ、という戦い方しかなかった。それが3年間続いた。
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著者プロフィール
小宮良之 (こみやよしゆき)
スポーツライター。1972年生まれ、横浜出身。大学卒業後にバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。パリ五輪ではバレーボールを中心に取材。