NBA伝説の名選手:ダーク・ノビツキー「ビッグマンの概念を覆したドイツ出身の超高性能スコアラー」

  • 秋山裕之●文 text by Akiyama Hiroyuki

マブスひと筋21年のキャリアで輝かしい実績を残したノビツキー photo by Getty Imagesマブスひと筋21年のキャリアで輝かしい実績を残したノビツキー photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載13:ダーク・ノビツキー

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

 第13回は、多彩な得点パターンでダラス・マーベリックスをチーム史上初のNBA王座に導いたドイツ出身のダーク・ノビツキーを紹介する。

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【ドリームチームに触発されて】

 今から約30年前。1990年代中盤のNBAでセブンフッター(7フィート=213cm以上の選手)やセンター、パワーフォワードといえば、大部分がリング近辺のペイントエリアを主戦場とし、激しい肉弾戦を繰り広げてきた。

 だが今では、そうした選手たちがプレー範囲を広げて3ポイントシュートを決めきることは、ごく普通の光景となっている。今回、紹介するダーク・ノビツキーは、それまでのビッグマンやセブンフッターの概念を覆すほど強烈なインパクトをバスケットボール界へ残してきた。

 1978年6月19日。ドイツのヴュルツブルクで生まれたノビツキーは、元ハンドボール選手の父ジョルグ・ヴェルネル、元バスケットボール選手の母ヘルガを両親に持ち、バスケットボールをひと足早く始めた姉シルカがいた。

 ハンドボールとテニスを主にプレーしていたノビツキーは「いつもジムで過ごしていた」と明かすほど、幼い頃からスポ―ツに夢中だった。ただ、テニスをするには背が高すぎたこともあり、いとこの紹介でバスケットボールに挑戦し、練習初日に好感触を得たことで、次第にバスケットへシフトしていく。

 ノビツキーは1991年にマイケル・ジョーダンがシカゴ・ブルズを初優勝へ導いた時、すでにNBAにのめり込んでいた。翌1992年のバルセロナ五輪にアメリカが"ドリームチーム"を送り込んで世界を熱狂させたことで虜になり、ドイツ出身で高校からアメリカへ渡り、NBA選手になったデトレフ・シュレンプ(元シアトル・スーパーソニックスほか)のことも追いかけていた。

そんなノビツキーのキャリアを好転させたのは1994年のこと。DJKヴュルツブルクでプレーしていた時に旧東ドイツ出身の元プロバスケットボール選手ホルガー・ゲシュウィンドナーと出会い、彼がコーチ兼メンターとなっていった。

 専属コーチをつけて"世界のベストプレーヤーのひとり"になるべく練習を重ねたノビツキーは、NBA選手たちとの初対戦でその成果を証明した。1997年夏、ナイキのツアーでエキシビションゲームがヨーロッパで開催され、チャールズ・バークレー(元フェニックス・サンズほか)やスコッティ・ピッペン(元ブルズほか)らが参戦。当時まだ19歳で細身だったノビツキーは、ベルリンで彼らと対戦して圧巻の52得点をマーク。1998年のナイキ・フープサミット(世界中の有望若手選手によるゲーム)でも33得点を奪い、NBAチームのスカウトからも注目を集めるようになった。

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著者プロフィール

  • 秋山裕之

    秋山裕之 (あきやま・ひろゆき)

    フリーランスライター。東京都出身。NBA好きが高じて飲食業界から出版業界へ転職。その後バスケットボール雑誌の編集を経てフリーランスに転身し、現在は主にNBAのライターとして『バスケットボールキング』、『THE DIGEST』、『ダンクシュート』、『月刊バスケットボール』などへ寄稿している。

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