NBA伝説の名選手:パウ・ガソル「優雅なプレーでプロキャリアを戦い抜いたスペインの至宝」
パウ・ガソルは、コービーとのコンビでレイカーズで2度の優勝を経験 photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る
NBAレジェンズ連載09:パウ・ガソル
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第9回は、ヨーロッパ出身の選手として史上初のNBA新人王となり、キャリア全盛期にはロサンゼルス・レイカーズの主力として一時代を築いたパウ・ガソルを紹介する。
【元祖ドリームチームに憧れて】
世界最高のプロバスケットボールリーグ、NBAの国際化を大きく後押ししたのは、1992年のバルセロナ五輪にアメリカが送り込んだNBA軍団"ドリームチーム"だった。
この年からプロの参加が承認されたことで、アメリカはマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)、アービン"マジック"ジョンソン(元ロサンゼルス・レイカーズ)、ラリー・バード(元ボストン・セルティックス)といったNBAのスーパースターたちが集結。大会を席巻し、1試合平均43.8得点差をつける圧勝劇で金メダルを獲得した。
今回紹介するパウ・ガソルは、そのドリームチームに衝撃を受けて人生が変わった選手のひとりだ。
1980年7月6日にスペインのバルセロナで生まれた男は、マルクとアドリアというふたりの弟を持つ三兄弟の長男として育ち、父が看護師長、母が医師だったこともあり、医者になることを夢見ていた。
1991年にマジックがHIV感染のため現役引退を発表した時、当時11歳だったガソルは医者になってHIVを治す方法を探ることを決断し、バルセロナ大学へ進もうとしていた。
だが、地元の学校に通い、バスケットボールをプレーするのが大好きだったガソルは、16歳からFCバルセロナのユースチームでプレーし、次第にバスケットボール選手を目指すようになる。そのキッカケが前述のドリームチームだった。
「バスケットボールというスポーツを超越していた。そこで『見ろよ、彼らは別格のレベルでプレーしているじゃないか。信じられない。彼らと対戦したい』と触発されて、私の夢になったんだ」とガソルは回想する。
選手として成長を続けていった男は、バルセロナでプレーした2000-01シーズンのユーロリーグで1試合平均18.5得点、6.0リバウンドをマーク。すると2001年のNBAドラフト1巡目全体3位でアトランタ・ホークスから指名され、当日のトレードでバンクーバー・グリズリーズへ移籍した。
2001-02シーズンにバンクーバーからメンフィスへ本拠地を移転したグリズリーズで、ガソルは平均17.6得点、8.9リバウンド、2.7アシスト、2.1ブロックをマークして、ヨーロッパ出身選手として史上初の新人王を受賞した。
「新人王になったことで劇的に変わった。大変だったけど、あそこでたくさん成長できた。このリーグでプレーすることが、どれだけ難しいのかを痛感したよ。練習に取り組んで、自分のすべてを捧げないといけなかった」
グリズリーズ時代をそう語ったガソル。身長213㎝・体重113㎏のサイズを持つ男でも、NBAでプレーしていくことは並大抵のことではなく、ましてや一線級で活躍を続けることは困難だったに違いない。
それでも、ガソルは2003-04シーズンにチームのトップスコアラーとして球団史上初のプレーオフ進出の立役者となり、2006年には初のオールスター入りを果たす。
ただ、3年連続でプレーオフ出場を果たしたものの、チームは1勝もできずに4戦全敗でいずれもスウィープ敗退。2006-07シーズンにはリーグワーストの22勝60敗(勝率26.8%)へ低迷し、勝てない環境にガソルは苛立ちを募らせていく。
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著者プロフィール
秋山裕之 (あきやま・ひろゆき)
フリーランスライター。東京都出身。NBA好きが高じて飲食業界から出版業界へ転職。その後バスケットボール雑誌の編集を経てフリーランスに転身し、現在は主にNBAのライターとして『バスケットボールキング』、『THE DIGEST』、『ダンクシュート』、『月刊バスケットボール』などへ寄稿している。