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旗手怜央が語る恩師・鬼木達監督への生意気エピソード「もうサイドバックはやりたくありません」 (2ページ目)

  • text by Harada Daisuke

【サイドバックで起用された思い出】

 その年で思い出すのは、未経験だったサイドバックで起用されたことだろう。フロンターレでのサイドバック挑戦が、東京五輪の出場につながったのだから、なおさらだ。

 あれはリーグ優勝を決めた直後の12月5日、アウェーの清水エスパルス戦(第31節)だった。試合が始まり、オニさんに呼ばれると、アップを急ぐように告げられた。交代するのは、左サイドバックのノボリさん(登里享平)だと言う。

 ピッチにいるメンバーを見渡すと、守田(英正)くんもいたため、守田くんが左サイドバックを務めるのだろうと想像していたら、自分がそのまま左サイドバックで起用された。

 その試合を2-2で終えると、続くサガン鳥栖戦(第32節)も、オニさんは僕を左サイドバックで先発起用した。メンバーには、(車屋)紳太郎さんもいたし、その後はノボリさんも戦列に復帰した。それでも僕は、天皇杯準決勝のブラウブリッツ秋田戦、さらに天皇杯決勝のガンバ大阪戦も左サイドバックでプレーした。

 リーグ戦、天皇杯の二冠を達成した2020年を終え、新シーズンがスタートした2021年のキャンプで、僕はオニさんに言った。

「もうサイドバックはやりたくありません」

 今もまだ決して経験が豊富とは言えないが、当時はまだプロ2年目の若造だ。その若手が「サイドバックをやりたくない」と、監督に進言する。今、思い返しても、くそ生意気だったと思う。

 その時も、オニさんは怒るでもなく、僕を諭してくれた。

「別に、レオにノボリや紳太郎のようなプレーをしてくれとは思っていない。チームにとって必要な守備や動きさえしてくれれば、サイドバックのポジションからゴールを狙いにいってもいい」

 さらに、こう言って背中を押してくれた。

「お前の色をサイドバックでも出してくれ」

 2021年2月20日、シーズン開幕を告げるFUJI XEROX SUPER CUPでも僕は左サイドバックとして先発した。自分自身がどのようにサイドバックでプレーすることを受け入れたかは覚えていないが、オニさんが言ってくれた言葉に、目の前が開けたことは覚えている。

 オニさんには、サイドバックとしてだけでなく、両サイドのウイング、インサイドハーフ、そしてセンターフォワードと多くのポジションで起用してもらった。

 どのポジションでも、自分らしくプレーできるようになったのは、間違いなく、オニさんが言ってくれた「自分の色」を意識した効果だった。また、パスの出し手の気持ちだけでなく、受け手の気持ちも考えてパスを出せるようになったのも、サイドバックをはじめ、多くのポジションにトライさせてもらった結果だ。

 そのポジションをやることで、ここにポジションを取ってくれていたら周りが助かる、ここで動き出してくれるとパスが出しやすいといったように、逆の立場で物事を見て、考えられるようになった。

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