2021.05.10

ジーコが「日本人のようだ」と評した「黄金の中盤」の元鹿島監督

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

 1978年のアルゼンチン大会。トニーニョ・セレーゾはまだ若かったが、すでにレギュラーだった。この大会はペレが代表を退いてから初のW杯であり、ブラジル代表は生まれ変わる必要があった。結果的には当時、軍事独裁政権下にあったアルゼンチンが疑問の残る形で優勝したが、ブラジルは1試合も落とさずに大会を終えた。トニーニョ・セレーゾの貢献も大きかった。

 1982年のスペイン大会についてはここであらためて語ることもないだろう。トニーニョ・セレーゾはジーコ、ソクラテス、ファルカンとともに、サッカー史に残る黄金の中盤を作り上げた。

 このW杯の翌年の1983年から、トニーニョ・セレーゾは国際的なキャリアを築くようになる。

 黄金の中盤のひとりファルカンは、その数年前からローマでプレーしていた。ファルカンはトニーニョ・セレーゾを獲得するよう、当時のローマの監督ニルス・リードホルムに進言した。ローマはこの前年に41年ぶりのリーグ優勝を果たしており、翌シーズン、チャンピオンズカップを戦うための選手が必要だったのだ。

 ローマはトニーニョ・セレーゾを500万ドル(当時のレートで約12億円)近くで獲得した。イタリアのチームがファルカンやジーコを獲得したのとほぼ同額である。ただし、トニーニョ・セレーゾは彼らと違いゴールに直結する選手ではない。その点ではこの金額は、当時としては破格であった。ブラジルのディフェンシブな選手にヨーロッパのチームがこれほどの金額を払ったことはかつてなかった。

 アトレティコ・ミネイロで7度州リーグ優勝を果たしていたトニーニョ・セレーゾだが、今度彼が挑むのは当時世界最高峰のセリエAである。しかしここでも、他の選手を苛立たせるほどの彼の冷静さは変わらなかった。

 実は、トニーニョ・セレーゾのローマ移籍は紙一重で立ち消えになる可能性もあった。1983年の夏、イタリアサッカー協会は、外国人選手の獲得を一時停止しようとしたことがあった。イタリアのメディアが、「あまりにも外国人選手が多すぎる」と非難したからだ。この時、ローマはトニーニョ・セレーゾ、ウディネーゼはジーコと交渉中だった。しかしそれでも移籍が成立したのは、当時のイタリアの大統領サンドロ・ペルティーニの発言による。