江川卓が稀代のヒットメーカーに投じた幻の一球 空振りした田尾安志は呆然と立ち尽くした (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

【田尾に投じた幻の一球】

 田尾に江川の球種について尋ねると、こんなエピソードを教えてくれた。

「江川って真っすぐとカーブの二種類しかないのに、僕にだけフォークを1球投げたことがあるって、本人が言っていました。動画サイトに当時の映像が残っているんですけど、空振り三振した時に『あれっ、今のボールは何だったの?』って驚いた表情をしています。コメント欄には、ほかの試合でも何球か投げていたって書かれていたけど、江川に聞くと『あの1球しか投げてない』って言うんです。江川って、体のわりに指はそんなに長くないから、きちんとしたフォークを投げられないんですよね」

 その場面は、1982年5月25日の後楽園球場での巨人対中日戦。巨人が7対0と大量リードの8回表、一死で田尾を迎え、カウント1ボール2ストライクの4球目にフォークを投げている。田尾は上体を崩されて空振りしたあと、右ヒザをつき「あれっ?」という顔で江川のほうを見つめていた。

 田尾は三振に打ちとられると、潔く小走りでベンチに戻るのに、この時だけ呆然と立ち尽くしていた。

 江川自身、プロ生活で初めて投げたフォークだと公言している。82年は20勝した翌年であり、まさに江川の全盛期と言えた。用意周到な江川のことだから、好調時こそ試し時だと思い、好打者の田尾に対して新しい球種を投げたのではないだろうか。

 フォークも思い出深い出来事ではあるが、田尾にとって江川との対戦のなかで、忘れられない打席がひとつだけある。それは1982年4月22日の平和台球場での中日対巨人戦だ。

「ゲーム前のバッティング練習で、打順が下がっていたうえに、『あと3本』と言われるのがめちゃくちゃ早くて、それにカチンときて残り3球は打たずにバントしたんです。そしたらヘッドコーチの黒江(透修)さんが『おまえ、野球なめとんのか!』と言ってきたから、『いえ、一生懸命やってます』と。すると今後は『そんな態度とるならゲームに使わんぞ』と言うから、『もう使わんといてください』とクビ覚悟で返したんです。それで練習を途中で切り上げて、スパイクやら荷物をバックにしまって、運動靴を履いてベンチに座ってゲームを見ていたんです」

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