江川卓の高校時代を石毛宏典が振り返る「もう現れないんじゃないですか、あんなピッチャーは」
連載 怪物・江川卓伝〜石毛宏典の忘れられない衝撃(前編)
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1980年代の西武黄金期のキャプテン石毛宏典にとって、江川卓の印象は高校時代で止まっている。初めて見た時の衝撃が強すぎて、大学、プロで対戦をした打席の内容を詳細に覚えていないというのだ。
当時は交流戦がなく、シーズン中でのふたりの対戦はなかったが、日本シリーズでは8打数5安打1本塁打。数字だけ見たら、完全にカモにしている。それでも「高校時代に比べたら」と謙遜ではなく自重して話す姿に、江川へのリスペクトは半端ない。
1987年の日本シリーズで江川卓(写真左)から本塁打を放つ石毛宏典 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【同世代にとって眩しい存在】
「江川さんはひとつ上なんですが、センバツですごいピッチングをしていたし、夏の甲子園では雨のなか銚子商と戦い、延長12回に押し出し四球で負けた試合をテレビで見ています。打席には立っていませんが、僕が高校2年の時に千葉国体で作新学院が来て、ゲーム前の練習で江川さんと大橋(康延)さんのキャッチボールがすごかった。ライトからレフトまでの遠投で、ボールが落ちてこない。遠投をやっていただけでみんなが『おおおぉ〜』ってどよめいていましたから。ゲームになれば糸を引くボールで、センバツ甲子園で今治西から20奪三振を記録して、駒大のひとつ上の先輩に今治西出身の渡部一治、曽我部世司がいたのですが、『とてつもなくすごかった』って興奮して話していましたからね」
当時の江川を知る者は、江川のことになると目の色を変えて話す。余談だが、筆者の学生時代の物理の先生が高校時代に練習試合で江川と対戦したことがあり、ふだんは寡黙に授業をやるのに、この時ばかりは口角泡を飛ばして「江川はすごかった。明らかにホップしていた」と物理の先生らしくない発言をし、「三振だったけど、ファウルを打ったんだぞ」とボールに当たったことが勲章のように誇らしげに話していた。
73年のセンバツのあと、"江川フィーバー"が全国を席巻していたが、セルジオ越後が初来日したのと同じ時期で「どうして耳の大きい高校生ばかり注目されているのだ?」と、あまりの熱狂ぶりに不思議がり、日本サッカーの人気の低さを悲嘆したという。
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著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。