ヤクルト山田哲人が明かすトリプルスリーの真実 一番しんどいのは打率? 本塁打? 盗塁? (3ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya

 山田が「あの時は(気配を消しても)無理でしたね」と言った。

「そのなかで、外してくるとわかっていてもスタートを切る思いきりのよさはあったので、そういう意味でも30盗塁目はとくに印象に残っています」

 山田がまだ若手の頃は、自分のことについては話すが、チームのことになると言葉を控えることが多かった。

「この世界は極端に言えば、チームは最下位でも成績さえよければ給料は上がります。野球をやっている以上、それは評価されているということなので、ひとつのモチベーションになるのは事実です。だから、チームが負けてもシュンとせず、自分の成績を残していこうと。そのなかでチームが勝てばなおさらうれしいという感情がありましたし、そういう貪欲さも必要なのかなと思っていました。また経験も少なく、自分に精一杯なところもあったので、無理に視野を広げるよりは、まず自分のことに集中していこうとやっていました」

 順調にキャリアを積み重ねていくなかで、いつの頃からか、山田はチームについてもコメントするようになっていた。

「そうですね。今は自分のことよりチームへの思いが強いですし、若い頃と違うなと感じるのは、チームの勝ち負けでうれしさや悔しさが、以前とは全然違うところです」

後編につづく>>

山田哲人(やまだ・てつと)/1992年7月16日、兵庫県生まれ。履正社高から2010年ドラフト1位でヤクルトに入団。14年に日本人右打者最多のシーズン193安打を放ち、15年にはトリプルスルーを果たし、チームの14年ぶり優勝に貢献。史上初の本塁打王と盗塁王のタブルタイトルを獲得し、MVPにも輝いた。16年は史上初の2年連続トリプルスリーを達成。18年にも3度目のトリプルスリーを果たした。21年からキャプテンに就任。同年夏、日本代表として東京五輪で金メダルを獲得。23年は第5回WBCに出場し、世界一に貢献した

プロフィール

  • 島村誠也

    島村誠也 (しまむら・せいや)

    1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る