カスティーヨ、ファンミル...。
相次ぐ事故で知るジャーニーマンの過酷 (4ページ目)
「まだまだプレーできるからね」
かつてカスティーヨは、「野球の果て」と言っていいようなイタリアのリーグでプレーする理由をそう語っていた。その言葉には、彼のプロ野球選手としての矜持(きょうじ)が詰まっていたように思う。彼がイタリアで手にするだろう数十万円の報酬は、ベネズエラではエリートサラリーマンでもなかなか手にすることができないものらしい。
しかしその報酬のために、家族と半年も離れて暮らす生活を選ぶのは、稼ぐというより本能に近い部分があったのかもしれない。
またファンミルのように、ヨーロッパで生まれながら野球を選ぶというのは、ある意味、変わり者と言えるかもしれない。学校の体育時間に初めてボールとバットを手にしたというファンミルは、そのままクラブチームに入り、ナショナルチームのメンバーにまで上り詰めた。
日本の球児とは違い、ごく普通のハイスクールライフを送っていたというファンミルは、好きなスポーツを職業にすることにただ喜びを感じ、アメリカ、そして日本へと渡った。舞台が変わろうとも彼の野球に対する姿勢は変わらず、常にプレーを楽しんでいた。オーストラリアでもそうだったに違いない。
"ジャーニーマン"の生活は過酷であり、常に危険と隣り合わせである。しかし彼らから感じるのは、心の底から野球を愛し、世界のどこへ行ってもプレーする場所さえあれば楽しんでいたということだ。野球を通じ、異国の人々や文化に触れるというのは、ある意味、億万長者になった一流のメジャーリーガーよりも味わい深い人生なのかもしれない。
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