【平成の名力士列伝:旭天鵬】「モンゴル人力士の先駆者」角界のレジェンドが歩んだ紆余曲折の相撲人生 (2ページ目)
【37歳8カ月での優勝は初優勝最年長記録】
一方でこの時期、モンゴル出身の後輩・朝青龍が台頭して、モンゴル出身初の関脇、大関、横綱へと駆け上がり、毎場所のように優勝を重ねていった。さらに白鵬、日馬富士と、次々とモンゴルの後輩が大関、横綱へと昇進し、相撲界はモンゴルの時代へと突入する。番付では彼らに追い越された旭天鵬だが、幕内上位に定着。平成15(2003)年3月には新横綱・朝青龍に初黒星をつけるなど、随所で存在感を示した。温厚な性格で、モンゴルの後輩だけでなく日本人力士や多くのファンから慕われる人気力士となった。
大きな岐路が訪れたのは、平成24(2012)年3月。場所後の大島親方の定年退職を機に、すでに37歳だった旭天鵬が引退して大島部屋を継ぐと思われた。しかし、旭天鵬は熟慮の末、「もう少し現役を続けたい」と断った。師匠も受け入れて大島部屋は閉鎖となり、旭天鵬はほかの力士とともに元関脇・魁輝の友綱部屋に移籍した。
その直後の同年5月場所、西前頭7枚目の旭天鵬は序盤こそ2勝3敗だったが、6日目から連勝街道を突き進む。横綱・白鵬が早々に崩れて優勝争いは混戦となり、千秋楽、栃煌山との史上初の平幕同士の優勝決定戦を叩き込みで制して12勝3敗で初優勝。凱旋した部屋では、友綱親方と退職したばかりの大島親方、新旧ふたりの師匠に祝福された。37歳8カ月での初優勝は、史上最高齢だった。
その後も長く土俵を務めて「角界のレジェンド」と称され、平成27(2015)年7月場所限り、40歳10カ月で引退。史上1位の幕内出場1470回など、数々の記録を残した。30歳のときに日本に帰化しており、引退後は年寄大島を襲名。友綱親方の定年退職に伴って友綱部屋を継承してモンゴル出身初の部屋持ち親方となり、のちに名称を、自らが育った大島部屋に改めた。令和6(2024)年10月、元・旭國の大島親方の死去の際には、「親方がいて、今の自分がある。自分の人生から切り離せない。親方が思いきったことをしてくれなかったら、白鵬や朝青龍らモンゴル出身の横綱は生まれなかったかもしれない」と語った。
先駆者の自負と恩師への感謝の思いを胸に、「レジェンド親方」を目指す道のりが始まっている。
【Profile】旭天鵬勝(きょくてんほう・まさる)/昭和49(1974)年9月13日生まれ、モンゴル・ナライハ出身/本名:太田 勝/所属:大島部屋→友綱部屋/初土俵:平成4(1992)年3月場所/引退場所:平成27(2015)年7月場所/最高位:関脇
著者プロフィール
十枝慶二 (とえだ・けいじ)
1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。
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