【平成の名力士列伝:曙】貴ノ花へのライバル心を礎に相撲道を進み続けた外国出身力士初の横綱
力士として、横綱として誠実に向き合い続けた曙 photo by Kyodo News
連載・平成の名力士列伝07:曙
平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。
そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、若貴と共に空前の相撲ブームの主役であり続け、外国出身力士として初めて横綱に上り詰めた曙を紹介する。
【貴ノ花へのライバル心が礎に】
その日、明治神宮には雪が舞っていた。平成5(1993)年1月29日、曙の横綱推挙式でのこと。常夏の島・ハワイ出身の23歳の若者にとって、雪は本来、まったく縁遠いものだ。しかし、2メートルを超える褐色の巨体に純白の綱を締め、まっすぐ前を見据えて、ゆったりと雲龍型の土俵入りを披露する姿には、真っ白な雪がよく似合った。
それは、「外国出身初」という歴史的な横綱昇進だった。ハワイの先輩、小錦が何度も挑んで跳ね返された壁を、曙は大関在位わずか4場所で超えてみせたのだ。しかし、曙自身は、「正直に言って、気がついたら横綱になっていた感じでした」と当時を振り返っている。その言葉の裏には、ライバルに勝つために、純粋に、夢中で相撲に打ち込んだ日々があった。
学生時代はバスケットボールに打ち込み、ハワイの大学に進んだが、コーチと合わず中退。そんな時、地元の英雄である元関脇・高見山の東関親方の誘いを受けた。相撲経験は皆無だったが、一念発起して海を渡り、東関部屋に入門。昭和63(1988)年3月場所、18歳で初土俵を踏んだ。
格好のライバルとなったのが、同期生の貴花田(のち横綱・貴乃花)だ。稀代の人気大関貴ノ花を父に持ち、兄の若花田(のち横綱・若乃花)とともに大きな注目を集めて入門したサラブレッドは、中学相撲の実績もあり、曙より実力は明らかに上だった。しかし、初めて番付に載った昭和63年5月場所の初対戦、曙は、「絶対に負けない」という強い気持ちで臨み、一気に押し出して、絶対不利の予想を覆した。曙が相撲人生で最も心に残ったと語る一番だ。
これを皮切りに、ふたりは激しく出世を争った。当初は、直接対決でも番付でも、曙が後塵を拝することが多く、十両昇進、幕内昇進、初優勝は貴花田に先行された。体とパワーを生かした突き押しで圧倒すれば勝てたが、足が長くて重心が高いため、叩かれるともろく、廻しをつかまれて動きを止められると負けてしまう。
しかし、曙はそんな欠点を稽古で克服した。単調できつい四股を、辛抱強く何百回も踏み続け、下半身を鍛えた。突き押しの精度に磨きをかけながら、廻しをつかむ四つ相撲の技術も学んだ。地道な稽古が少しずつ実を結び、貴花田との直接対決でも5連勝するなど有利になり、小結昇進、関脇昇進、大関昇進と先んじた。そして平成5(1993)年1月場所千秋楽、1差で追う貴花田を圧倒して、2場所連続3回目の優勝を手土産に横綱昇進。曙にとっては、「外国出身初」より、絶対に負けたくないライバルに先んじて横綱に昇進したことに価値があった。
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著者プロフィール
十枝慶二 (とえだ・けいじ)
1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。