大橋悠衣が2冠を達成した東京オリンピックの舞台裏 日本女子として史上初の快挙に「実感がない」
大橋悠衣は、日本女子では五輪史上初の同一大会2冠を達成した photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る
新型コロナウイルス感染拡大の影響で1年延期となり、2021年夏に行なわれた第32回オリンピック競技大会・東京2020。無観客という異空間での開催となるなか、自分自身のために戦い抜いたアスリートたちの勇姿を振り返る。
今回は競泳女子個人メドレーで、日本史上初の2冠に輝いた大橋悠衣を紹介する。
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【初日の400mで女王を上回り金メダル獲得】
新型コロナウイルス感染拡大に翻弄される大会となった東京2020。1年間の開催延期となるなか、日本勢で当初の実力に大きな影響を及ぼした競技のひとつが競泳だった。だが、本大会が1年延期となり、プレッシャーを感じ続ける時間が延びたことの精神的影響も大きかった。
競技初日7月24日の男子400m個人メドレー予選では、世界ランキング1位で臨んだ瀬戸大也が、自己ベストより4秒以上遅いタイムで9位に終わり予選敗退。翌日の男子200m自由形では、4月の日本選手権で自身の日本記録を更新(1分44秒65)していた松元克央が、予選17位で準決勝進出を逃すという予想外の事態が続いた。瀬戸はその後も200mバタフライで準決勝敗退し、唯一決勝に進んだ200m個人メドレーは4位とメダルに届かなかった。
そんな日本チームの苦境のなか、唯一目覚ましい結果を残したのが、女子個人メドレーの大橋悠依だった。200m、400mで五輪では日本人女子選手として史上初の2冠を達成した。
「ここ2年間はうまくいかないことだらけですごく苦しくて、ほぼあきらめたような感じでした。東京五輪までも正直、全然うまくいっていなくて、金メダルを獲れるなんて一瞬も考えなかった。東御(長野県)合宿でも調子は上がらず、6月下旬の長野の試合で泳いだ時は『もしかしたら決勝にも残れないのでは......』というくらい状態が悪かった。そのあとに自分の不安要素が全部さらけ出されて心が折れたが、その時に平井(伯昌)先生に『チャレンジするのをやめるという選択肢もあるんだぞ』と言われて。400mをやめて200mにシフトしようかと一晩考えたけど絶対にメダルを獲りたかったし、『メダルに近いのは400mだ』と思って挑戦することを決めました」
この種目には16年リオデジャネイロ五輪で200mと400mの2冠の「鉄の女」カティンカ・ホッスー(ハンガリー)がいたが、本調子とは言い難かった。大橋は、そのホッスーを尻目に、最初の400mでは200m過ぎからトップに立って4分32秒80のシーズンベストで逃げ切り優勝。そして準決勝5位だった3日後の200m決勝でも最後の自由形で競り勝ち、2位に0秒13差をつける鮮やかな勝利で、周囲も驚く結果を出した。
恒例だった海外の高地合宿に行けなかったコロナ禍の期間、大橋は不安な日々を過ごしていた。2020年は10月の短水路日本選手権は200mと400mで優勝したが、12月の日本選手権はエントリーのみで棄権。翌年2月のジャパンオープンは2種目で優勝し、代表選考会を兼ねた4月の日本選手権も400mこそ4分35秒14で優勝したが、200mは2位。そして代表決定後の6月のジャパンオープンは2種目で優勝したものの、200mは2分10秒49で400mは4分35秒92と勢いをつける記録は出せなかった。
その後の合宿でも、泳ぎの感覚を取り戻せたわけではなかった。だが、自分の覚悟が決まったことで、選手村に入ると気持ちが一変した。
「いつも東京でリハビリを見てもらっている先生に体の状態を見ていただくことができたので、自分が気にしていた体の左右のバランス差などが改善されて、心地よく泳げる感覚をつかめました。金メダルとか、メダルは別にして、『これはすごくいい泳ぎができるかもしれないな』と思うようになりました」
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著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。