師匠が下した英断。横綱・鶴竜が
日本語をすぐにマスターできたわけ (2ページ目)
四股名をいただいた時は、「お相撲さんになったんだなぁ」とうれしくて、「カクリュー」「カクリュー」と自分の四股名を繰り返していたみたいです。自分ではあまり覚えていないんですが(笑)。
師匠(井筒親方=元関脇・逆鉾)からは、「アナンダ(私の本名)、半年間は部屋から出てはいけないよ」と言われていました。私は「相撲部屋とはそういうところなんだな」と納得していましたが、師匠の言いつけが間違っていなかったことは、あとでわかりました。
2001年は初場所(1月場所)に日馬富士関、春場所に白鵬関が入門するなど、モンゴル人力士の入門ラッシュの年でした。同じ部屋に複数のモンゴル人がいる場合は別ですが、ほとんどはそうじゃないから、日本語がわからないし、教えてくれる人もいない。だから孤独になって、近くにいるモンゴル人力士とつるんで、夜、遊んだりする。
そうやってモンゴル人同士で話していると、日本語を覚えない。つまり、いつまで経っても日本語が上達しないので、相撲部屋にも馴染めない。実際、そうした理由から、角界から去っていったモンゴル人力士は何人もいます。
師匠はあえて「外禁」を言い渡すことで、日本人だけしかいない相撲部屋の空間で、私が日本語を早く覚えられるようにしてくれたのです。
一方で、師匠は「ちゃんと家の人と連絡を取りなさい」と言ってくれ、普通は三段目とかにならないと持てない携帯電話を、新弟子の頃から持たせてくれました。おかげで、モンゴル語が喋れなくてつらいとか、そういう思いもしないで済んだんです。
もちろん、稽古に関しては厳しかったですよ。部屋には、39歳までストイックに現役を続けた寺尾関がいらして、準備運動の重要性などは近くで見ていて、本当に勉強になりましたしね。
他の部屋のモンゴル人力士は、師匠から「関取になるまでモンゴルには帰らせない」みたいに言われていて、帰りたくても帰れない人が多かったけれど、私に関しては1年に1度、里帰りが許されていました。こうした環境があったからこそ、「がんばろう!」という気持ちが強くなったんでしょうね。
井筒部屋の環境がよかったから「がんばれた」と語る鶴竜
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