【プロレス】佐々木健介インタビュー「最高の体をつくって復帰しますよ!」 (2ページ目)

  • 中込勇気●取材・文 text by Nakagome Yuki
  • 乾 晋也●撮影 photo by Inui Shinya

同期のライバル馳浩との待遇差

――同期といったら、馳浩さんがいるじゃないですか。

佐々木 馳は僕の2ヵ月後に入ってきた。やっと後輩ができた! と喜んでたら、全然待遇が違った(笑)。この世界では年齢に関係なく一日でも早く入ったほうが先輩なんだと思ってたのに、某選手に事務所に呼び出されてこう言われたんですよ。「これから馳が来るけど、おまえは馳のことを『馳さん』と呼べよ」。「え~!」という感じでした(笑)。

――レスリングのオリンピック日本代表はやっぱり特別扱いなわけですね......。

佐々木 僕はまだ10代で若かったから、悔しくて意地でも「馳さん」とは呼ばなかったですね。「馳ちん」とか「馳ぼう」とかちょっと誤魔化してたけど(笑)。

――馳さんは健介さんをなんと?

佐々木 「健介」ですよ。「健介さん」だろうが!って(笑)。それはそれで別にイヤではなかったんですけど、待遇が全然違った。馳は先輩に食事に連れていかれるけど、僕は雑用。あるとき、なにげなく給料をきいたんですよ「俺は5万円だけど、いくらもらってるの?」って。そしたら「え? 俺は15万」。今じゃ笑い話だけど、そのときは必死だったから「チキショー、負けるか!」と思って。だから、練習では絶対に負けないと張り合ってましたね。ふたりきりで道場で練習してるときは、お互い「そろそろ練習やめよう」とは絶対に言わない。朝から晩までやってました。

――「ハセケンタッグ」の原点はそこにあったんですね。

佐々木 福岡で馳の心臓が止まったとき(※1990年、バックドロップを受けた馳が試合後に倒れ一時心肺停止に陥った)、俺はずっと横にいたんです。馳の顔から血の気が引いて真っ青になって。そのとき、「コイツがいなかったら俺のプロレスは終わりだ」って瞬間的に思った。自分は馳のことを大切に思ってたことに気づいたんですね。そこからは変なこだわりがなくなって、本当に素直に付き合っていけるようになったんですよ。

――これまでのキャリアで、体がいちばん大きかったのはいつですか?

佐々木 パワー・ウォリアーになった92年ごろじゃないかな? あの時期から体が変わり始めたんですよ。若いころからガンガンやってたけど、急激にデカくなることはなかった。やってきたことの積み重ねであの体になったという感じですかね。かといって、あのころが肉体のピークではないんです。20代前半のとき、マサ斎藤さんに「ちゃんとやってれば35歳から力がつくから」って言われたんですよ。一般的に考えたら落ち始める年齢じゃないですか。でも、実際35歳くらいになったとき、本当の力がついたというか、すごくいい感じになれたんです。マサさんの言葉を信じてやってきたから、今の俺があるんだと思うんですよ。だから今、若手にも言うんです。「俺が言ってることは今はわからないかもしれない。でも忘れるな。何年後かに気づくから、信じてやれよ」って。いい意味での純粋さっていうのは、いくつになっても忘れちゃいけないと思いますね。

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