NBA伝説の名選手:マジック・ジョンソン「既成概念を破るプレースタイルでNBAを世界規模のリーグに押し上げた長身PG」

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

マジック・ジョンソンは、そのパフォーマンスでNBA自体の価値を上げた photo by Anthony Barboza/Getty Imagesマジック・ジョンソンは、そのパフォーマンスでNBA自体の価値を上げた photo by Anthony Barboza/Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。第2回目はNBAを世界規模の人気リーグへ押し上げる礎を築いたマジック・ジョンソンを紹介する。

連載・NBAレジェンズ02:マジック・ジョンソン

【チームを優勝に導いた衝撃の1年目】

 1980年代にNBAがプロのバスケットボールリーグとして飛躍を遂げるきっかけを作った選手を挙げるならば、『マジック』という異名をとったアービン・ジョンソン・ジュニアの名前を最初に挙げなければならない。

 ミシガン州ランシングで生まれ育ったジョンソンは、高校1年の時の試合で36得点、18リバウンド、16アシストのトリプルダブルを達成。その試合を見ていた地元紙の記者がそのプレーぶりを『マジック』と表現したことをきっかけに、ジョンソンはアービン・ジュニアから愛称で呼ばれるようになる。

 高校卒業後、ミシガン・ステイト大に進学したマジック・ジョンソンは、2年時にチームをNCAAトーナメント(全米大学選手権)優勝に導いた。決勝で勝った相手は、のちにNBAでライバルとなるラリー・バードを擁したインディアナ・ステイト大。この試合は約4000万人がテレビで視聴したと言われており、バスケットボールで最も視聴者数が多かった試合として有名だ。

 NCAA制覇を成し遂げたあとの1979年のドラフト1巡目1位でロサンゼルス・レイカーズに指名されたジョンソン。206cmの身長ながらポイントガードが本職で、身長7フィート(213cm)以上のセンターがインサイドを支配することが成功のカギと言われていた時代に、異質なポイントガードとして革命を起こした選手だった。

 ジョンソンがスーパースターとしての地位を確立したのは、フィラデルフィア・76ersと対戦した1980年のNBAファイナルだ。

 第5戦でチームの大黒柱だったカリーム・アブドゥル=ジャバーが足首を捻挫し、第6戦を欠場することに。しかし、ジョンソンはアブドゥル=ジャバーの不在を補うべくセンターとして出場すると、42得点、15リバウンド、7アシストの大活躍。レイカーズが優勝する原動力となっただけでなく、ルーキーとして史上初、史上最年少の20歳276日でNBAファイナルMVPに選出されたのである。

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プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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