【Jリーグ】「日本のスパイ」と呼ばれて...韓国人Jリーガー第1号・盧廷潤が人知れず抱えていた葛藤 (2ページ目)
【「剛」のイメージから変化】
悲壮感のそばには、責任感もあった。
「もし僕が日本で失敗したら、Jリーグのチームは『韓国人選手を取るのはやめよう』と考えるでしょう。これは大変なプレッシャーです」
だからなのだろうか、ピッチ上での彼はいつでも闘争心剥き出しなのだ。
100メートルを11秒台で走るスピードを持ち、「止める、蹴る」も一定以上の水準にあったが、記憶に残る彼は必死の形相でタッチライン際を駆け上がり、DFをぶっちぎっている。「韓国=フィジカルが強い」というイメージを、忠実なまでに表現していた。
彼自身が多くのものを背負っていたことはともかく、その存在はスチュアート・バクスターが指揮する広島のサッカーにピタリとハマった。ターゲットマンの高木琢也、突破力と得点力を備えるパベル・チェルニーとのトライアングルは、試合を重ねるごとに脅威度を高めていった。1994年にイワン・ハシェックが合流すると、前線の破壊力はいよいよリーグ屈指となる。
1994年ファーストステージ開幕節の名古屋グランパス戦で、盧はペナルティエリア内右からGKの頭上を破る左足ループを決める。チームを勢いに乗せるシーズンのオープニングゴールだった。
4月に行なわれた鹿島アントラーズとのアウェーゲームでは、1点リードの終盤にペナルティエリア内でDFを翻弄し、強烈な右足シュートを浴びせて勝利を決定づけた。来日前は直線的で「剛」のイメージが強かったプレースタイルは、次第に「硬軟自在」となっていく。
1994年は6月中旬からアメリカワールドカップが開催されるため、韓国代表に選出された盧は5月14日の鹿島戦を最後にチームを離れなければならなかった。その試合で2ゴールを叩き出し勝利を手繰り寄せる。助っ人外国人に求められる勝負強さも、彼の魅力となっていった。
広島では1997年までプレーし、1998年からオランダ・エールディビジのNECブレダへ新天地を求めた。在籍中には1998年のフランスワールドカップに出場し、1999年のJリーグ開幕とともにセレッソ大阪の一員となる。桜のユニフォームには2001年途中まで袖を通し、アビスパ福岡へ移籍する。福岡がJ2へ降格した2002年も残留したが、チームのJ1復帰を見届けずに同年かぎりで日本を離れた。
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