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伊東輝悦「悔しかった」日韓W杯メンバー落選 海外クラブ移籍も「ちょっとやってみたかった」

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

引退インタビュー
伊東輝悦(アスルクラロ沼津)中編

◆伊東輝悦・前編>>「若いころのイメージを追いかけたりはしなかった」

 伊東輝悦は、なぜ50歳までプロサッカー選手を続けることができたのか。

 その大きな理由が、「変化を受け入れる」ことだった。

 転機となったコンバートがある。

 背番号10が似合う攻撃的MFとしてプロ入りした伊東は、3年目の1995年にボランチへ転向する。アトランタ五輪出場を目指す西野朗監督のチームで、未知なる挑戦を打診されたのだった。

マイアミの奇跡と日本代表について伊東輝悦が思うこと photo by Fujita Masatoマイアミの奇跡と日本代表について伊東輝悦が思うこと photo by Fujita Masatoこの記事に関連する写真を見る「西野さんに言われた時は、正直『ええっ』て思いました。最初はちょっと嫌でしたね。その当時のイメージとして、あそこのポジションは守備のイメージがすごく強かったから。

 まあでも、西野さんもそんなに無茶な要求はしてこないだろうし、実際にやってみたら守備だけじゃない。攻撃の局面にも間違いなく関われたので、トライしてみようと。まあでも、それもやっぱり性格じゃないかな」

 変化を受け入れて、トライしてみる。その答えは、必ずしも「OK」ではないだろう。「やっぱり、もとのポジションがいい」と考える選手だっているはずだ。

 伊東にとっては僥倖(ぎょうこう)だったのである。両手をダブルボランチに見立てて、ポジションの役割を説明していく。

「何かね、面白かったんです。ダブルボランチだと、ひとりが攻撃重視で、もうひとりが少しうしろとか、じゃないですか。で、年齢を重ねたら、攻撃じゃなくて守備の役割が多くなったりとか」

 ピッチ上の立ち位置が変われば、目にする景色も変わってくる。それもまた、伊東の感性を刺激した。

「中学や高校では、今みたいに情報がたくさんあるわけじゃないし、戦術がどう、分析がどうってことでもなかったので、感覚でプレーしていたところがあった。プロに入った最初の頃もそうだったけど、全体を見られるようになったし。その理由のすべてが『ポジションが変わったから』というわけではないけど、プレーするのが面白くなってきたのはあったね」

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著者プロフィール

  • 戸塚 啓

    戸塚 啓 (とつか・けい)

    スポーツライター。 1968年生まれ、神奈川県出身。法政大学法学部卒。サッカー専誌記者を経てフリーに。サッカーワールドカップは1998年より7大会連続取材。サッカーJ2大宮アルディージャオフィシャルライター、ラグビーリーグワン東芝ブレイブルーパス東京契約ライター。近著に『JFAの挑戦-コロナと戦う日本サッカー』(小学館)

【写真】伊東輝悦とも対戦した、あの人は今〜1994年Jリーグ得点王「オッツェ」今昔フォトギャラリー

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