平成を彩った日本サッカーの原点。
「世界への扉」が開かれた1996年
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平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン
【1996年3月 サッカー五輪予選vsサウジアラビア】
歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動......。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。数多くの勝負、戦いを見てきたライター、ジャーナリストが、いまも強烈に印象に残っている名場面を振り返る――。
1996年、日本はサウジアラビアを下して28年ぶりとなる五輪出場を決めた どの時代の代表メンバーにも「アル・ドサリ」という名を持つ選手がいるから、サウジアラビアではポピュラーな名前なのかもしれない。
そんな名前が強烈なインパクトとともに記憶されているのは、ひとえにあの選手の存在ゆえだ。
オベイド・アル・ドサリ――。
1996年(平成8年)3月24日、アトランタ五輪アジア最終予選で日本が対戦したU-23サウジアラビア代表の絶対的なエースである。
2トップの左後方から前線に飛び込んでくる恐るべきアタッカーで、この最終予選でも日本との準決勝を迎えるまでに、3試合5得点と猛威を振るっていた。
その卓越した技術と決定力、身のこなしとパワーに、日本チームを率いていた西野朗監督は、「あいつは、本当はブラジル人なんじゃないか」と冗談めかして警戒している。
だが、厄介なのは、オベイド・アル・ドサリだけではなかった。
「もうひとりのドサリ」こと、ボランチのハミス・アル・ドサリ、スピードと破壊力を備えたイブラヒム・イサとナサル・アル・ガハタニの2トップ、左足のスペシャリストで、のちにサウジアラビア代表のキャプテンを務めるフセイン・スリマニ、屈強なセンターバックで、のちに2002年日韓ワールドカップにも出場するアブドラー・ズブロマウィなど、サウジアラビアはタレントの宝庫だった。
紛れもなく、この年代のアジア最強チーム――。日本が28年ぶりのオリンピック出場をかけて戦ったのは、そんな相手だったのである。
平成の日本代表において、最も印象に残っているゲームは何か――。
もちろん、1992年(平成4年)のアジアカップ初優勝も、1993年(平成5年)の『ドーハの悲劇』も、1996年(平成8年)の『マイアミの奇跡』も、1997年(平成9年)の『ジョホールバルの歓喜』も、2002年(平成14年)のワールドカップ初勝利も、言うまでもなく2018年(平成30年)の『ロストフの死闘』も脳裏に焼きついているが、最も手に汗握り、興奮し、喜びを爆発させたのは、アトランタ五輪アジア最終予選だった。
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